『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

<4> 小説の中でも倫理的でありたい

── 学校という舞台は、いつ発想されたものなんでしょうか?

 タイトルが先にありました。まず、ひとつひとつの章を短編として独立させたいと思ったのですが、長編として読んだときに決して歪みを生じさせないためには、「記憶はずれる」という前提をもつ舞台装置が必要でした。たとえば学級のようなある集団があって、全員それぞれの記憶はちがうだろうという前提でこの作品は進んだんです。僕自身、小学校の同級生の名前はほとんど思い出せません。だけど皆がそこにいたのは事実で、今もそれぞれの記憶がある。その記憶を大人になった同級生たちが語るとすると、それぞれが自分の語ることが真実だと思っているんだけど、しかし、そもそも記憶は共有されない。共有されているようでありながら、実は共有されていないということを『4444』で書きたかったんです。

── 本文中に出てきますね、「記憶はずれるよ」。古川さんの作品はどれも記憶がテーマにありますね。

 そうですね。真実性というものに対する僕自身の考え方が、どうも人とちがうらしいということに、生きていると始終気づいて頭をぶつけてしまう。小説を書いていても校閲の人から「資料にはこう書いてあります」と正されてぶつかっちゃうんだけど、でも僕にしてみれば「それは資料を書いた人の記憶でしょ。俺の方がもっとわかってる」となる。決して正しくない記憶だとしても、そこに真実はあるんです。
 歴史はある人の恣意的な選択性によってしか成り立っていません。その認識を共有できていないことに僕はびっくりするんです。そこを崩さないといけない。崩すということは世界の前提にたった一人で戦わなきゃいけないということだから、その覚悟でしょうか。たぶん死ぬまで言わなきゃいけないんだろうと思ってます。

── タイトルが先に浮かんだということですが、「4444」は学級新聞のタイトルというのも最初からイメージされていたんですか?

 いや、途中で思いつきました。ストーリーが学級新聞のタイトルであるという意味を奪還していったんですね。44の章はそれぞれが「自分がこの本の主役だ」と思ってるはずだから、それぞれの奪還力が強い。

── タイトルが出てきた時点でイメージされていたものは?

 ストーリー的なイメージはまったくありませんでした。やりたかったのは二点。『gift』を今書くとどうなるのか。もうひとつは『ルート350』という短編集のなかに「物語卵」という話があるんだけど、それはいろんな語り手が喋っているように見えて、実はひとりの人間の頭の中で起きてることなんです。つまり多重人格者とカウンセラーの話ですが、それを読み解けた人は僕の知るかぎりでは今まで誰もいない。そこで描かれた、無限に出てくる話どうしがネットワークしていくということ。それがひとりの頭の中ではなく、いくつものところで起きるとどうなるのか。それをやってみたかった。

── ある女性が「同心円の中心(人物)」を直観する場面があります。誰を、あるいは何を直観したのか、読み方は様々にできると思います。集合的な記憶が同心円のようなものを描くとすると、それらの決して一致しない記憶群に、果たして本当に中心はあるのか。中心が求められないのが記憶なのだというふうにも読めます。

 学校を書くということは、同心円の中心をどこにどう定めていいのかわからないということなんです。俺はそこに何度も立ち返ってた気がします。結局、主役は教室なんです。
 小学校の頃のことはあまり覚えてないですが、たったひとりだけよく覚えてる女の子がいて、その子のことはすごく嫌な感触とともに思い出すんです。こっちは強く覚えてるけど、あっちがまったく思い出さない可能性が95%くらいあるんですよね。あっちをこっちに存在させるということ。それは何なんだろうって思うんです。亡くなった人たちにも言えることでもある。

── 明示は避けられていますが、日高くんはいじめに遭い、一種の死者として登場していますよね。いじめを扱う動機になったものは何でしょうか?

 誰かが死んでいる、そして机に花があるというイメージが最初からありました。机が空白になるのではなく、机に何かが置かれる。恐ろしくありませんか? 机は中に物を入れたり横にかけたりするものでしょう。だけど上に物が置かれる。しかも、亡くなった人の机の上に花という生き物が置かれる。そのイメージが刷り込まれたスチールのようにずっと消えずにありました。それが何かを生んだんだと思います。

── いじめという行為やいじめがある状態の恐怖や残酷さというよりも、何かが失われていった経過や動機が振り返られるかたちで恐ろしさのようなものを生んでいると感じました。これまでいじめが扱われた小説にはなかった感触です。

 でも僕は一貫してそうですよ。幼児虐待のことをずっと書いていますが、それについてほとんど描写しない。描写するのだったら、その子を自立させるとか周囲を切り捨てさせるとか、とにかくそうしないと人物に対して救済があたえられないんです。描写してしまうと登場人物に憎しみをおぼえさせて復讐に向かわせてしまう。そのために人生を犠牲にさせてしまう。僕はそういう物語に一切興味がもてない。なぜなら、現実に有効じゃないから。本を読んでもらう以上、それはお金を払ってもいいし払わなくてもいい、盗んでもいいのですが、人生に対して有効じゃないのなら本なんて要りません。そのときにいわゆるリアリズムで書くことに意味があるのかわからない。もうひとつ、そのことにセンシティブすぎて、書くことで人物をいじめたり虐待する勇気が僕にはまったくありません。それは作家としては逃げているかもしれませんが、人間としては誠実だと思います。

── 小説内でたくさん人が殺されているなかで、とても倫理的な態度だと思います。

 まさに倫理ですね。倫理をもっていいのかどうかはわからないけれども、作家としてどちらかを選ぶなら、僕は倫理をもつ方を選ぶ。

── 小説において、大人を殺すことと子どもを殺すことには、また少し違う重さがあると思うんですが。

 ええ、違いますね。

続きを読む