『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

1 どうやったらプールでうなぎを養殖できるか?

   
 びわ盗みには最適の日だった。雨がふっていた。わたしは弟と傘をさして(それは相合い傘ではない)、第四のルートに出た。
「第四のでいいよね?」とわたしは訊いた。
「ヨン?」
「三のつぎ」
「うん」と弟はうなずいた。
 わたしたちにはいつもの散策のルートが複数ある。それらは天気とか目的とか、その日のいろんな条件に合わせて、選択されたり、されなかったりする。この季節、びわを沿道から盗むのなら、第四のルートにかぎられる。視界にはいつも、びわの熟した黄色い実が何十、何百とうつっていたから。ただし、それはわたしの視界にってことで、弟の認識ではどうなっているか、想像できない。だからわたしは確認した。
 弟の傘が揺れる。
 一歩、わたしに先んじている。
 わたしの傘も揺れる。
 たいした降りかたではないけれども、雨は、わたしたちを隠す。
「捕れる?」と弟が訊いた。
「しー」とわたし。「……ほら。はい!」
「これは、いいびわ」
「ほんとう?」
「ほんと」と弟が断言する。
 わたしは褒められてうれしい。収穫にふさわしいびわの実って、見分けるのはむずかしいのだ。しかも、たいていのびわの樹は他人の家の庭に生えている。枝が道路で張りだしているのなら、それは“公共のもの”だとわたしは判断するけれども。
 弟がポケットからナイフを出す。
 それでびわの皮をむいた。
 小さなナイフ。
 そして、皮をむいて食べるのは弟の主義。
「はい」とわたしにも一つ、くれた。
 弟のポケットからはいろんなものが出てくる。なんでも出てくる、とわたしは感じるときがある。他人の所有物も出てくるけれども、それは盗んでいるのではない。それは入るのだ。ほとんど勝手に、弟のポケットに入る。まだ通学していた頃には、弟は誤解されていた。
 弟は盗んだりしない。
 わたしたちはいま、びわを盗んでいるけれども。
 何人分もの携帯電話が弟のポケットに入っていたこともある。鳴る順に弟は応答した。「はい、トトキです」って。「はい、こちらはトトキです」って。
 いつか、わたしさえも弟のそばから消えたら、だれが弟の面倒を見るんだろう?
「抜群のびわ」とわたしは言った。
「うん。これも」と弟は言って、ほほえんでいるのが波動みたいに感じられた。わたしたちは二人で、盗んだびわを頬ばっている。わたしたちは二人で、それぞれに傘をさして歩いている。第四のルートを。
「ねえ、いままでいちばん美味しかった食べ物って、なに?」とわたしは訊いた。
「えぇと」と弟。
「パッと思いついたのでいいよ」
「うなぎ。うなぎの、カバ焼き」
「ははっ」とわたしは笑った。予想外の回答だったし、でもなんだか幸福感にあふれていて。
「うなぎは淡水魚でしょ」と弟は言う。
「そうだね」とわたしは答える。
「しかし、淡水魚ではないです。産卵のために、海にクダります。日本のうなぎの産卵は南西太平洋のシンカイでおこなわれると考えられています」
「あ、それ、ニュースで――」
「はい。産卵場所の海底山脈は二〇〇六年の夏にほぼ突き止められました。そして、うなぎは腹びれのない魚です。カバ焼きにはビタミン類が豊富です。うなぎは最初、レプトケファルスです」
「レプトケファルス」とわたしは復唱する。
 わたしたちの散策の第四のルートは小学校につづいている。その小学校は、弟の通っていたところではない。弟とは無関係だ。わたしは懸念はいだかずに、足を進める。
「レプトケファルスは小魚です。木の葉のような形をしています。うなぎやアナゴのいちばん最初の姿です。レプトケファルスは発見されたとき、新種の魚と考えられました。レプトケファルス属となりました。まちがいでした」
「まちがいだったんだ?」とわたし。弟の知識は、いつもためになる。
「そうなのです」と弟。
「レプトケファルスが、それで、つぎにうなぎの姿になるの?」
「つぎに、しらすうなぎにヘンタイします。これが体長十センチぐらい。このしらすうなぎを捕まえて、養殖はおこなわれます」
「そうか。しらすからね」
「天然のしらすうなぎを捕まえて、そだてます」
 雨脚がふいに強まる。わたしたちは歩調をむしろゆっくりにして、やがて佇む。もちろん二人そろって。二つの(花が開いているようなオレンジとホワイトの)傘で。小学校の敷地のかたわらだ。
「それは」とわたしは言う。でも、わたしはなにを言いたいんだろう? なにを弟に訊きたいんだろう? どんなふうに話をつづけたいの?
 しかし問いがないのに、弟は答えた。
「それは淡水養殖でしょ」
 ああ、そうだ、とわたしは思う。
 そして金網ごしに小学校のプールが見える。雨を吸い込んでいるような、いっぱいの雨滴を“ゴール”として捕まえているようなプール。その水面の波紋が(一瞬もおなじ形にとどまらない)、ほんの何メートルか先に見える。
「ほら」とわたしは言う。
「プール」と弟は言う。
「淡水だね」とわたしは言う。
 弟はなんだか思索する。考え込んでいるのが波動みたいにわかった。それから、口を開いた。
「ねえ、プールでうなぎ、養殖できる?」
「できるかもよ」とわたしは答えた。
「どうやったら?」
「方法?」
 わたしの目は、弟は通わなかったけれどもわたし自身は通学していたそこの、校舎のシルエットを見る。あるいは校庭を。校庭の隅の、むしろ体育館の区画に属しているような焼却炉を。全部、雨に煙っている。
「うん、方法」と弟がしっかり尋ねる。
 だから、わたしもしっかりと答える。
「魔術で」と。

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