35 何回ガチャガチャいった?
それから僕はシジをする。ちゃんと電話でつたえる。これは携帯電話です。僕のポケットは携帯電話のハカバではありません。「でもね、でもねでもね、ハカバはあるの」と、かけてきた子が言う。その前に「どうしてママじゃないのにでるの?」と言う。僕はまず、ちゃんと携帯電話がマヨい込んできたことを説明した。これはどうにもならない。いつもいつも、僕は説明してきたけれど、これは勝手に起きる。僕の右のポケットで起きることが多い。左のポケットにはちっちゃなナイフが入っていて、僕は、このナイフで皮をむかないとフルーツが食べられない。あんまり大きなナイフは持っていると警官にショクムシツモンされるって、僕はマユねえに言われた。マユねえ、ねえの字は姉。でも僕は書けません。だってマユねえはいつもいるから。いる人を字にしたりはできません。
それから携帯電話の子がふしぎなオハナシをした。
オハナシをしながら「ママにそうだん、する」と言った。
僕は「なにを?」とたずねた。「だって、でないでないの、まわしてもでないの」と言った。僕はぴんときました。だから説明した。「お金は入れたんだね?」って。「ちゃんと、ちゃんとちゃんと!」とその子は言った。僕の持っているこの携帯電話は僕がショユウしていいものではないから、僕はきちんと回答しようとする。その子がママにたずねているんだから、僕がシジしないとって思う。何回ガチャガチャいったか問い合わせながら、僕はほんとうにバス停の……ハカバなんてあるんだろうかと疑問に思う。でもなんだか、あるのがわかる。そして、そうしたオハナシの全部がはじまる前に。僕は電話に出たのでした。「はい、トトキです。こちらはトトキです。こちらは」
34 どんな職場ならば就業時間中に辞表を出してガトーショコラを食べに行くか?
ここは海じゃないんだ、と彼女は思う。だんだん海なんじゃないかって気がしはじめていて、違う違うと否定する。でも、お店がじつは太平洋と日本海と瀬戸内海に囲まれてるかもしれないって可能性は、どう? 彼女はそんなふうに自問している自分に愕然として、飲みすぎだ、と判断する。どうして居酒屋の壁には、メニューがこんなふうにばりばり貼られてるんだろう。ばりばり? ばらばら? ばんらばんら? なんだろう? と彼女は思う。
「お札みたい」
「なにが?」
「お札じゃない」
友だちの一人(彼女の友だちのボーイフレンドだ。さっき、足のさきで彼女の太股にふれてきた。その靴下、どうなんだよ、と彼女は思った。臭いことないのかよ?)にそう応じて、ここには祈りもおまじないも無し、と判断する。メニューはただのアイキャッチのためのメニューで、定番と本日のおすすめがあるだけだ。そこに、赤丸。しかも二重丸。〆鯖、と彼女は思った。うん、あれはシメサバって読むはずだ、と彼女はうなずいて、“〆”の字がなにかに似ているとは思うが、どうしても答えを出せない。
そして魚介。
海のメニュー、いかのお刺身、平目に、鳥貝に……。
「ビール、ジョッキで追加の人」
「はい」と彼女は言う。違った、あたしは梅酒のロックだったのに。いろんな梅酒がここにはあって。そうだ、京都の梅酒もここにはあって。それをロックにしようって思ってて。でも、京都は海とは縁がないの?
「若狭湾」
「あたし、訊いた?」
「いやだ、ちょっとトイレ」
「で、だれが辞めるの?」彼女はやっと訊いた。
そこまで足のさきで侵入するなよ。手を握るのと、違うぞ。店員の年配の女性が「うちではねぇ、鶏の軟骨の唐揚げがぁ、自慢ですから」と自慢するのが彼女の耳に入る。ここは海じゃないんだ、と彼女は思う。それとも海棲ニワトリ?
海。海の音がする。
高梨は会社を辞める。
あたしはどうするの?
もう吐きたい。ここには食べたいものは無い、無い。ああ、もうジョッキが空いちゃうし、と彼女は思う。脳裡にはガトーショコラが浮かんでいて、「あたし、あんたの顔に塗ってやるから」と宣言する。彼女は声に出している。
33 四四四
起立、礼。やぁ、そのままで。ちょっと着席を我慢しろ。今日は手紙を受けとったから、言うことがある。たしか落合の父兄からの……あぁ、姉さんからのか。おかしなもんだな。父兄ってチチとアニって意味だろ? どこに姉さんを入れたらいいのかな。これはPTAの大問題だ。そして、手紙だ。「いつもお世話になっています。中略。一が一であることはかまいませんし、いろいろな数が一になると証明されたとも聞きました。それも私的にはかまいません。ですが、妹に、そして妹のクラスメートに、無理数の説明をしないでもかまわないのでしょうか? 僭越ながら」……その、センエツってゆうのは、出過ぎてますがって意味だな、落合の姉さんは凄いな。十九歳だったか? 半端な大学生じゃないな。それで……「一分でわかる無理数講座を、ぜひとも担任の安東先生にお願いできればと、切に願っております。後略。かしこ」って、そうゆうことだ。だからな、この話だけはしよう。無理数だ。じつは一と二のあいだに、二と三のあいだに、三と四のあいだに、数がある。しかもそれは、分数じゃないんだ。だから、だから……。そんな無理数の転校生が来たら、先生はすこし、困る。しかしな、名前はつけられるよ。ルート転校生だ。
√。
さぁ復唱しよう。ルート。
黒板に書くからな。いい記号だろう? じゃあノートに写すために着席。
それからな。
三組と四組のあいだに学級はないからな。肝試しで、ちびるなよ。ありそうに見えたら幻覚だ。「四・四……」と数えてもういちど「……四」。この再確認の呪文で、魔除けをするんだぞ。うん、字あまりの定理だ。四四四。
32 だれがアトムの記憶を再生したか?
エスカレーターを息子と二人で降りる。
「どっちにつかまる?」と訊いたから、
「ほら、左」と教える。
「こっちが左?」
「そっちが右」と訂正する。
「どっちもつかみたい!」とわがままを言うから、
「シンはちいさいから無理」と正直に言う。
そうか、とおれは思う。
つかまれるようになるだけで、しあわせなのか。
どうしてこのしあわせをおれは捨てた?
どこでポイした?
「ちいさいちいさいちいさい」と息子が言うから、
「だから食べれば、育つぞ」と教える。
「おいしいのを?」
「なんでも」
「ブロッコリーきらい!」とわがままを言うから、
「緑黄色の呪いだ」と解説する。
ほとんど煙に巻いた。
エスカレーターがまだ下のフロアにつかない。
「りょくおーしょっく?」
「そうだ、ショック」
「しょくおー、ショック!」
緑王、とおれは頭のなかで変換してみる。
いいかもしれない。
「緑王」と言うと、
「ショック!」と合いの手が入る。
まだ下のフロアにつかない。
息子が急に神妙な顔つきになる。
「どうした?」と訊いたら、
「おなかのネンリョーは、ごはん?」と問われた。
「そうだよ」と答えたら、
「あたまのネンリョーは?」と訊かれた。
頭の燃料?
記憶だ、とおれは思った。
だからおれは、
「燃料は、メモリー」と教えた。
すると脳裡にふいに回答が響いた。OSの名前はアトム・ゼロ。待て、だれだ——だれだ。いま脳を——おれの脳を——ハッキングしたのは? だれだ? おれは必死でエスカレーターの手すりにつかまる。ぎゅう、とつかんだ。そうだ——両手でつかまないと——そうしたら幸福が——
「めーもりー」と息子が歌うから、
「シン」とおれは、
息子の名を、
呼んだ。
