『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説
34 どんな職場ならば就業時間中に辞表を出してガトーショコラを食べに行くか?
ここは海じゃないんだ、と彼女は思う。だんだん海なんじゃないかって気がしはじめていて、違う違うと否定する。でも、お店がじつは太平洋と日本海と瀬戸内海に囲まれてるかもしれないって可能性は、どう? 彼女はそんなふうに自問している自分に愕然として、飲みすぎだ、と判断する。どうして居酒屋の壁には、メニューがこんなふうにばりばり貼られてるんだろう。ばりばり? ばらばら? ばんらばんら? なんだろう? と彼女は思う。
「お札みたい」
「なにが?」
「お札じゃない」
友だちの一人(彼女の友だちのボーイフレンドだ。さっき、足のさきで彼女の太股にふれてきた。その靴下、どうなんだよ、と彼女は思った。臭いことないのかよ?)にそう応じて、ここには祈りもおまじないも無し、と判断する。メニューはただのアイキャッチのためのメニューで、定番と本日のおすすめがあるだけだ。そこに、赤丸。しかも二重丸。〆鯖、と彼女は思った。うん、あれはシメサバって読むはずだ、と彼女はうなずいて、“〆”の字がなにかに似ているとは思うが、どうしても答えを出せない。
そして魚介。
海のメニュー、いかのお刺身、平目に、鳥貝に……。
「ビール、ジョッキで追加の人」
「はい」と彼女は言う。違った、あたしは梅酒のロックだったのに。いろんな梅酒がここにはあって。そうだ、京都の梅酒もここにはあって。それをロックにしようって思ってて。でも、京都は海とは縁がないの?
「若狭湾」
「あたし、訊いた?」
「いやだ、ちょっとトイレ」
「で、だれが辞めるの?」彼女はやっと訊いた。
そこまで足のさきで侵入するなよ。手を握るのと、違うぞ。店員の年配の女性が「うちではねぇ、鶏の軟骨の唐揚げがぁ、自慢ですから」と自慢するのが彼女の耳に入る。ここは海じゃないんだ、と彼女は思う。それとも海棲ニワトリ?
海。海の音がする。
高梨は会社を辞める。
あたしはどうするの?
もう吐きたい。ここには食べたいものは無い、無い。ああ、もうジョッキが空いちゃうし、と彼女は思う。脳裡にはガトーショコラが浮かんでいて、「あたし、あんたの顔に塗ってやるから」と宣言する。彼女は声に出している。