『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

31 何年前に「劇団名はアトム・ラブズ・ウランにしました」と言われたの?

   
 追憶についての戯曲の執筆には困難がともなう。その理由を考えてみよう。たぶん現在が過去を内包する構造になるからだ、と思われる。演劇というものは、いま現在、リアルタイムで立ちあらわれる表現だ。そこに虚構としての過去が挿入されれば、必然的に構造はメタになる。つまり、リアルタイムで起動させている表現はじつは——と断わりを入れるまでもないが——フィクションなのに、そのフィクションがさらにベール一枚の向こう側のフィクションを要求するわけだから。そして、それを咀嚼しなければならないのは観客、という事態に至る。
 不親切だな。
 しかし僕が問題としているのはそれか?
 もちろん違う。戯曲がその他の「文学」のジャンルと決定的に異なるのは、それが声に出されることを前提とした作品である、との一点に尽きる。もちろん読まれるためにだけ書かれる戯曲はあるのだろうが、それはエセ戯曲だ。失敬。
 たぶん戯曲は過程にある。
 舌足らずの説明だけれども、途上にあるのが戯曲だ。
 それは上演の途上にある。
 そして、上演するのは一つのカンパニー、ある年代というか日時に限られないから、出口は無限にある。
 つまり無限にむかっての途上にあるのが一つの戯曲だ。
 一から。
 ∞へ。
 このことはさほど理解されていないと思う、僕は。
 そして問題は、戯曲は台詞で成立しているし、それはつまり、出口——すなわち上演時——においては声に出して読まれる、ということだ。稽古期間は決して読まない、という強い姿勢を持ったカンパニーがあってもいいし(たぶんタブーが関与しているんだろう、想像するに)、本番で流すのは字幕であって声ではない、との前衛的あるいはポリティカルな気概を持ったカンパニーがあってもいい(全員の観客が「耳が聞こえる」との思い込みを棄てよ!)。あらゆるものには例外があり、例外を孕んでこそ「全部」は成立する。というわけで、例外は廃除した、僕は。
 声が発せられるのが戯曲だ。
 声を発するのは肉体だ。
 肉体はいま、ここにリアルに存在している。
 すると過去の声とは、なにか?
 つまり、これが僕の追憶の戯曲に対する躊躇、どうしても感じざるを得ない困難の、核だ。一つのモットーを掲げるならば、「声はいま誕生しなければならない」となる。ならば、過去の声とは?
 そこで僕は止まる。
 それを響かせる手段を透視できなければ、もう書けないからと、止まる。
 ここには僕の耳のよさがマイナスに作用しているのかもしれない。マイナス。そうだ、あの引き算の記号。僕は過去の声をどう聞いたらいいのか?
 つまり、あのフレーズに僕はぶたれるのだ。「懐古主義」って四文字だ。
 ノスタルジアだって?
 僕たちの子供時代には線が引かれている。その線からこっち側が二十世紀、あっち側が二十一世紀……。僕たちは世紀をまたいだ子供たちだ。それがどうしたって思うか? 気をつけて想像するといい。じきに世紀をまたいだ子供たちは減る。そして消える。全員が二十一世紀生まれになって……。
 その線のこっち側。
 いまではあっち側。その終わりには、そうだな、大量殺人がありました。それから、地球滅亡の予言がありました。ジェノサイド、ジェノサイド、カタストロフィー。なんだっけ、あの言葉? 「春巻きゲドン」? 違うよ、ハルマゲドンだ。
 何語だよ。
 いずれにしても二十世紀の紹介は、死、で済む。死、死、肉体の死だ。望まれているのは大量の死だ。望まれなかったら二度の世界大戦なんて、起きていない。
 ……そうか。
 声を発する肉体がもしも死んでいたら、それは過去の声になる……。
 のか?
 それで僕は電話をかける。劇団名については、電話を切ってから語るから、このことに関しての会話は交わされない(あるいは記録されない。いや、待てよ、電話を切ってからなのか——かける前じゃないのか? それも何年も前に?)。
「あ、いま大丈夫?
 うん、まあ書けてる。
 いや、書けてない。
 頭では書きあがってる。
 抽象的なブロックがあって。
 そう。
 メンタル・ブロック?
 これもそう言うのかな。
 それでさ。
 何年生のときに、だれが死んだんだっけ。
 その子、出られないかな。うん、役者で、舞台に。言わせたい台詞があるんだよ。言わせたい台詞が、たんまり、たっぷり? 頭のなかにあって、それを書けたら戯曲はばっちり完成するんだよ。そうさ、二日で仕上げてやる。だから、ほら、何年生のときの」

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