『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

29 あと何分?

 おれは思うんだが、赤ずきんちゃんはこんな話だ。彼女の祖母は遠いところにいる。だれも住んでいないところに住んでいて、そこが森だから、そこには狼(やら、名づけ得ない怪物たちが)いる。どうして祖母は森にいるのか? 森は人間の住むところなのか? 赤ずきんちゃんは事情を知っているわけだが——たぶん——、おれたちは知らされていない。赤ずきんちゃんは「森にも行ける」少女だ。これは驚異的な能力と言っていいだろう。異能だ。ただの人間の女の子ではない。あるいは、一種の強化スーツとしてそれを着ているのかもしれない。
 それ。
 もちろん赤ずきん付きの、だからパーカだ。
 色彩はもちろん赤。
 見るからに戦闘的なパーカだ(と思う。目にしたならば、そのはずだ。だが、目にできる者はどこにいるのか? 森にいるのか? だとしたら、目撃者はすなわち森の怪物に類する生物なのか? 怪物の仲間なのか? きみはどうなんだ?)。もはや彼女が「赤ずきん着用」時点で、その生物としてのモードは変更されている。
 半分人間だ。
 人間であるのは半分だけだ。
 パーカの、裾はなびいたか。
 かもしれないな。
 そして、森だ。彼女はそこに入り込んでいる。この物語に七人のこびとは出ない。あれも半分人間だった。それから狼が出る。赤ずきんちゃんが狼に遭遇した。
「あら、狼さん」
「サレ」
「去れ?」
「ココハ森ダ」
「わかってるわよ」
「ダカラ、サレ」
「用事があるのよ」
「アルワケ、ナイ」
「あるのよ。おばあちゃんがいるのよ。そこにむかうのよ」
「ソレガ人間デアルワケ、ナイ」
「おばあちゃんが?」
「オマエハ悪イ」
「わたしが?」
「オマエタチガ」
 狼が先回りをする。森を、赤ずきんちゃんの祖母の家をめざして、森のなかの獣道を。その道を通るならば、人間はずっと遅れる(に違いないと狼は確信している。狼はあまりに純粋なのだ)。すでに森に「人間の種」が蒔かれていることを、狼は赤ずきんちゃんと話して、知った。老成した人間が、すでに暮らしている! それは見えない汚染だった。純然たる森の生物の視界には、けっして捉えられない。だが、いまはヒントを得た。だとしたら……だとしたら……。
 怪物になれ。おれが怪物になれ。
 狼は走る。
 獣道だ。狼用の、あるいは猪や熊も通るのかもしれないが、道を。
 しかし赤ずきんちゃんはただの人間ではない。
 半分だけしか人間ではない。
 狼を追う。
 パーカの裾がなびいた。
 その色彩は、赤……赤!
 追いかける影だ。狼を、びしっと追跡しつづける色彩だ。森のなかの不自然な赤。
 少女の目が光る。
 ぎらりと光る。ずきんの下で。双眸が。おばあちゃん、待っててね。おばあちゃん——おばあちゃん!
 狼は間に合う。
 狼は捨て身だ。祖母をしとめる。
 そして半分人間に立ちむかうためには、おのれも半分人間にならなければならないと直観する。その直観は正しい。だから祖母を演じる。祖母となるための「人間装」をする。ああ、これで半分人間の狼だ、と狼は思う。これでおれも十全に怪物だ。
 森のためにおれが森を汚染するのか。
 しかし強化スーツは、狼を巨大化した。
 その“パワー”の点で。
 それから対峙がある。
 赤ずきんちゃんの祖母の家で、半分人間の二者がむき合った。
 それぞれの半分ずつが、「これは騙しあいだ」——と理解している。
 ここからはグロテスクでエロティックな様相を呈する。だからこそ、民話としての赤ずきんちゃんが世界を席捲したんだが。それってどこの民話だ? まあいい。もう時間もないから(ほら、バス停はあと二つだけだ)、おれはつづける。携帯の画面にも字をこうして打ち込みつづける。狼が、グラスに入れた祖母の血をさしだせば、少女は、それを美味しいワインだわと言って呑み干す。挑戦を受けて立ったのだ。しかし——この時点で——赤ずきんちゃんの人間性はすこしばかり絶対的に棄てられた。敗北を回避するためにそうしたことで、結局、赤ずきんちゃんは人間をやめはじめている。それは半分人間であった様態とは、少々異なる。
 肉も食べた。
 狼が祖母の声を出して、「お食べ」と言ったのだ。
 それは挑戦だったから、「あら、美味しいわ」と答えたのだ。
 あるいは彼女は、血と肉によって祖母自身となる——摂取によって“祖母化”する——ことで、より強靭さを増そうと意図したのかもしれない。それほど森は、アウェイだった。だからこそ森の生物たちは、排除を試みた。
 狼は強化スーツを脱がせようとする。
 一枚ずつ、お脱ぎ、と言う。赤ずきんちゃんに。
 着ている服を。
 その挑戦を、赤ずきんちゃんは受ける。
 脱いで、暖炉に放り込んだ。
 本来ならば、脱げば、半分人間のモードから「常人」のそれに状態をダウンさせるだけだった、はずだ。しかし、そこには戦術がある——たぶん——、だからこそ、らんらんと双眸を輝かせて、少女は裸体にちかづいた。
 ほら、祖母の血が消化される。
 ほら、祖母の肉が消化される。
 あと少し。
 あと……ほんの……少々。
 全裸の少女が、もちろん胸もまだ出ていなければ、陰部に毛も生えていない少女が、毛だらけの狼とむき合う。この瞬間、狼は戦慄した。毛だらけならば勝てたかもしれないのに、おかしな「人間装」をしている。祖母の装いをまとったことで、毛の力が抑えつけられてしまっている。それは強化ならぬ弱化スーツなのだ。
 半分人間では、負ける。
 やすやすと少女に、屠られる。
 そして少女が襲いかかるとき、狼は言う。人間の(祖母の)声音を棄てて、言うのだ。「オマエニハモウ、ズキンハナイヨ」と。「オマエガ赤ズキンナモノカ」と。
 この瞬間。
 この瞬間だ、魔術はたしかに成った。この物語から赤ずきんちゃんが消える。しかし、消えたものは読み手なり聞き手を満足させないから、それは狼の腹に収まる。
 そう、赤ずきんちゃんは食べられてしまったのです。
 おれは「つぎで降ります」のボタンを押す。バスの車内の。間に合った。あと一分は、あるか? 送信しよう。検討してもらおう、大峰に。おれが携帯電話で書いた、これ、このテキストに、ちゃんと絵をつけられるかどうか。
 なあ、大峰。
 本題です。絵本作家になろうぜ。おまえ、立ち直ンないとな。天才なんだろ?

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