『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

21 で、いま何時?

   
 離陸します。
 オウギはその瞬間を感じる。シートベルトは着用している。窓際の席は空いていませんとチェックイン・カウンターで言われたから、通路側の席に座っている。あたしは何度、トイレに立つのか? さあ。斜めになる。離陸と上昇のために斜めになるのは機体だが、結局、オウギが斜めになっている。窓の外を見ないと、ただ単に“箱”が傾いたようにしか思えない。あたしが詰められた“箱”?
 時間は経過します。
 ハワイにむかっている。州都ホノルルのあるオアフ島に。だから太平洋を西(ほとんど西のはしっこの日本)から東に飛んでいる。いつか日付変更線を越えるんだっけ? そうすると、前の日になるんだっけ? ちがうか、時間帯によってはならないんだっけ? でも、飛べば飛ぶほど、一時間ずつ、時間は巻きもどるはず。だから、ほら、時差。その時差を生じさせながら、飛行機は飛ぶ。あたしは飛ぶ。
 チキンにしますか、ビーフにしますか。
 機内食を食べる。英語を話すときだけ、自分の名前には特別さがないのだと実感する。あたしはオウギで、ただ単に発音されるオウギだ。漢字で書いたら一文字だけの苗字で、けっこうスペシャルに目立つのに。だから扇って。あたし、扇千里って。オウギ・チサト。でも英語だと、ただ単にチサト、とか、オウギって発音されるだけ。そうだ、一文字の仲間がいたな。そうゆう苗字の人はあんまりいないけれど、小学校にはいた。クラスメートで。
 時間は巻きもどります。
 時差、時差、時差。そうだ、スミ君だった。もちろんスミ君。あたしは最初のクラスから好きで、でも、告白なんてしたことがなかった……。だって小学生は告白なんて「センないこと」って思ってるし。いまの子供たちはするのかな? ただし中学生になったら、違うね。それで、スミ君だ。あたし、中二で再会して。あのスーパーマーケットで。スーパーマーケットみたいなとこに入っていた、テナントの、書店で? あたし、声かけて。ほとんど勇気も要らなかった。突然だったから、運命みたいに——運命みたいに思えて、声だって出た。そうしたら、あーあ。
 本機は定刻に到着します。
 うん、オン・タイムに? 時間を巻きもどしながら一路東に飛んでるのに、オン・タイム? それで、あれだ、スミ君だ。あたしにニコッて笑いかけて、でも戸惑ってて、笑ったのも反射的な感じので、それから言われたな。「だれ?」って。あーあ……。あれは絶望したね。なのに、すっかり忘れてたね、あの思い出。かなりキツかったからかあ。即、あたし泣いたよね? どこでだっけ? だから、あのスーパーマーケットの地下か、一階かの、食品売り場の……野菜? ちがうか、鮮魚コーナー?
 乱気流です。
 ゆれるなあ。また時間、もどるなあ。思考はそこでフリーズする。客室乗務員に、気分がわるいのですか、と問われる。いいえ、とオウギは答える。しかし、とりあえずオウギはトイレに立ち、もどる。もどっても自分が飛行する“箱”のなかにいる状況が変わらないのだ、と痛烈に認識する。しかし、この“箱”は時間をどんどんマイナスにする。そして思い出す。そうだ、鮮魚コーナーだ。あたしは鱒を見ながら、泣いた。氷の上に並べられていた、ほかの魚といっしょの、でも鱒だけを見て。顔がヘンだったから? 鱒のあごの形って、なにか言いたげだったから?
 時間は早送りはできません。
 でも、とオウギは思う。あたしは涙ぼとぼと落としながら、スミ君、ねえって思ったんだ。あなたは鱒を見るでしょう。これは予言でしょうって。超ヘンなの。なんだろう。なんだろう、これ? つまり、未来の宣告? てゆうか、あのときの未来って、もしや現在? また客室乗務員が来る、と通路側の席のオウギは目にとめる。そして、尋ねる。いま、どのあたりを飛んでいるのですか? あたしたち、日本とオアフ島のあいだの、どこを?
 で、いま何時?

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