『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

15 いくつのハードルを乗り越えてバビロニアが再建されたかを指折り数えているうちに一生が終わったらどうする?

   
 空中を鱒たちが泳いでいる。そんな光景が現実のはずはない。スミはそこで目を覚ます。気持ちがわるい。まるで車酔いだ。いや、じっさいに車酔いだ。タクシーに乗っている自分をスミは発見する。スミは自分の苗字が角であって、その一文字で角と読むのだと想い起こす。想い起こす? もしかしたら車酔いはしていない、とスミは悟る。ただ酔っている、と理解する。アルコールに酔っているのだ、しかも深く。スミは記憶を逆回転させて、時間を巻きもどす。すると、空中を鱒たちが泳いでいる。
 食べられる鱒だ。
 両側にいる。
 左に二列、右に三列。
 スミも泳いでいる。
 つぎの瞬間、スミは泳いでいない。
 跳ぶ準備をする。跳躍の。それからバビロニアの町々が倒れる。
 夢だ。
 それから、タクシーの後部座席がある。路肩で挙手をして、拾って、乗ったのだ。その前に、スミは泥酔している。打ち上げの宴会があったのだ。宴会の、三次会が。その前に二次会。そして一次会。そしてビジネスの場面があり、今日の勝利がある。プレゼンはもらった。仕事を獲得したのはスミだ。そうか、とスミは思う。やっと完全に理解する。美酒ってやつに酔わされて、と思う。気持ちがわるい。タクシーを降りないとと思う。窓の外には鱒たちも鮭たちも泳いでいない。ただ夜の街並みがある。むしろ黒い静謐がただよっている。ガラス窓は閉め切られているのに、外も静かだとわかる。気持ちがわるい。こんどは車酔いが来そうだとスミは予感する。こんどこそ?
「ここで停めてよ」と言う。
 むしろ急停止させる。料金を払う。深夜の割増運賃。ダッシュボードに嵌め込まれたナビを見て、時刻を知る。04:56AM。ゼロで……4、5、6。ある種の勢いをつけてスミは降車し、領収書をもらい忘れていることに気づき、すでに発進してしまったタクシーの尾灯を追いかけるが、追いつけない。もちろん。人間にはエンジンがついていない。スミは、自腹だ、と思う。領収書がないから、自腹だ、これが勝利者かよ、ひと晩もたない?
 足を停める。
 鮭も、鯖も、なにも宙にはいない。
 泳ぎたい。スミは泳ぎたい。
 夢?
 そして……さっきの夢の、バビロニアって?
 古代文明だ。映画のシーンみたいだったな。スローモーションで煉瓦の建物がいっぱい、順に崩れたりして。そうだ、文明が終わる。絶対に文明は終わる。世紀末……懐かしいな。いつの?
 二十世紀末?
 あの世紀の子供たちって、どこに?
 スミは大通りから離れている。路地裏に入っている。どういう道を選んでいるのか自分でもわからない。ルートは複数ある。ある、という気がする。だれかの散策のルートかもしれない。だれか? それから小学校の敷地が現われる。歩いているスミの、左手に。敷地は金網で覆われている。
 ああ、そうか。
 こんなところに、タクシーの途中停車で。途中下車?
 スミは記憶の逆回転を、つづける。スミの時間は——スミ自身の意思で——巻きもどされる。不意討ちのような泥酔と、夢から、いまは覚悟をもって。入社前。成人。高校の卒業式。入学式。中学の卒業式。入学式。
 小学の……。
 6。
 5。
 4。
 さっきのカウントの逆だ。逆回転だ。いまは何時だ?
 もちろん金網は越えられる。跳躍すれば、しがみついて、乗り越えれば。一つめのハードル。それから植え込みがあり、それが二つめのハードル。またカウントだ。スミはきちんと右手の指を折って、数える。そしてグラウンドに出る。視界の、左手から正面にかけて校舎のシルエット。夜明け前でも、わかる。ある、とわかる。いる、とスミにはわかる。それからプール、体育館、その体育館に付属しているような焼却炉。スミは歩いている。歩き出している。グラウンドの片隅。
「これ、砂場か?」
 だれが聞いているわけでもないのに、問う。
「なんのために? 走り幅跳び? そうゆうの、やったか? 障害物競走用とか? だから——ハードル?」
 だれも答えない。
 スミはしゃがみ込む。その砂場に。記憶は逆回転しつづけている。もはや自律だ。その記憶の運動は。逆向きの“それ”は。小四になってグラウンドに来て、こんどは3、2、1。しかしゼロはない。低学年よりも下、小学校にゼロ学年はないぞ。スミは砂をいじり、まずは掻きあつめ、山として、掘り、部分的に崩し、また部分的に積み、造りはじめる。ほとんど無意識にはじめている。砂の建造物だ。ミニチュアの校舎? いや、とスミは思う。これは文明だ。バビロニアの再建だ。
 小学校以前にも自分はいました、とスミは思う。
 だれに告げているの? とスミは思う。
 幼稚園児の自分がいました、とスミは告げる。
 だれに告げているの? とスミは思う。
 手が、しっかりと砂を握り、持ちあげ、さわさわと梳るように整え、圧し、削る。文明は再建されようとしている。小学校のグラウンドの砂漠に。スミは保育園児になり、母乳を吸う。バビロニアの十全なる再建までには、まだハードルがあった。しかし、スミはそれらも続々乗り越える。「問題は」とスミは思う(しかも声に出す)。「母乳よりも前だ。生まれる瞬間になって、一生が終わったら……どうする?」
 すでに午前七時がちかい。そして、曙光とそのつぎの段階の日の光がたっぷりとグラウンドに、その小学校の敷地じゅうに降りそそいでいる。事のなりゆきが漸進的だったためにスミは気づいていない。指さきの作業にあまりに集中していて、気づいていない。おまけに時間は巻きもどっているのだ。しかし、だれかが現われてスミに声をかける。児童だ。それも低学年の。せいぜい小二——。たぶん、学校でいちばんに登校した男児だ。
「なにをつくってるの?」と訊かれる。
「おまえもいつか四年生になるぞ」と答える。
 これは告知だ、とスミは思う。

続きを読む