『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説
10 どんな太陽がフランスを支配したの?
男は台所にいて、女はソファにいた。男は刻んでいて、女は孕んでいた。
「ねえ、このCDかけるね!」
「このって、どの?」
「ラ……ラメー?」
「なんだよ、それ。綴り、言って」
「アール、エー、エム、イー……」
男は妻の唱えるアルファベットに合わせて、そのリズムに合わせて、一本のセロリをみじんに刻んでいった。
「……エー、ユー。ねえ、なんて読むの?」
「ラモー」
「あ、ラモーさんか」
「フランス人だよ。ジャン・ラモー」
「ジャン、ラモー」
「ほんとうは……フルネームなら……ジャン・フィリップ・ラモー」
たん、たん、たん。
たん、たん、たん。
男はリンゴを半分に割って、それから、皮をつけたまま、みじんに刻む。
たん。
たん、たん、たん。
女がソファで、フランスの後期バロック時代ならではの華やかで軽快なメロディを、やはり軽やかな鼻唄に変える。そして孕んでいるもののために歌う。夫と自分のためにCDを聴いて、歌は、まだ生まれていないもののために発せられる。
声帯の振動で、のどの振動で——体の内側へのバイブレーションで。
「あ、ねえ」
「なんか言ったか?」
「こんな鼻歌って、料理の邪魔ンなる?」
「ぜんぜん」
「よかった」
「あのさ、ニンニクって」
「なに?」
「刻みやすいな。もう終わったよ」
男はタマネギに移る。
一個のタマネギを、さっと洗い、皮をむき、刻みだす。
さきに——玉のまま——横に、また横にと包丁を入れておきながら。
「地球みたいだなあ」
「え、なに?」
「ひとりごと。緯度、刻んでるみたいだ」
「うわあ、タマネギだね」
「わかる?」
「すっごい、こっちにまで、涙がながれちゃう感じが伝わるよ」
「新鮮なんだよ」
女はうなずいた。
ソファで笑った。
そっと腹部を撫でた。
これ、ラモーさんだって、と言った。子供に。まだ生まれてはいない、孕まれているものに。
「フランスのクラシック音楽ってさ」
「訂正するけど、フランスのクラシックってゆうか、フランスのバロック音楽。時期的なことで言うと」
「それがラモーさんか。で、その時期のって全部、こんな雰囲気なの?」
「こんなって」
「うーん、幸福な……?」
「まずさ、太陽王がいてな」
「ルイなんとか?」
「ルイ十四世。そいつが死んでから、こうゆう雰囲気の音楽になった。反動で」
「もしかして、ルイ十五世から?」
「ルイ十五世の時代から」
「じゃあ、その前は」
タマネギはなかなか刻み切れない。
でも、時間をかけることは悪いことじゃないな、ぜんぜん、そうじゃないな、と男は思う。
たん、たん。
た、た、た、た、た。
そして妻の問い。
「ねえ、どんな太陽がフランスを支配したの?」
「重々しい太陽」
これが男の回答。
た、た、た。
た、た、た、た、た。
曲が変わった。
ラモーの鍵盤曲『雌鶏』に。
コ、コ、コ、コ、コ。
コ、コ、コ、コ、コ。
た、た、た、た、た。
鶏が鳴いている。男が刻んでいる。女がふわっと笑った。
「これ、もしかしたらさ!」
「鳥の鳴き声だよ」
「そうだよねぇ」
「鶏の」
「のんきだなぁ」
「刻みやすい」
「でさ、なに作ってくれてるの? あたしに……あたしたちに」
それは、と言って、言葉を刻む。