『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

7 だれなら百本の歯に歯が立ったのか?

   
 ア・ロング・タイム・アゴー。いいことをしないといけないんだぞ、と青年はずっと思っていた。いいことをしないと……。その思いは正しかったか? これに対して青年はいまだ結論を出せていない。まず、正しいとはなんだ? その証明のためには、正しさを否定するようなことが要るんじゃないのか? それから、いいってなんだ? いいことって? しかし青年がこんなふうに問いはじめたのは、就職してからだ。それ以前は、違った。正しいからしたことが正しかったし、いいと思って(もしかしたら思い込んで)した行為は、全部、いい。
 そうだろ?
 ロング……ロング・アゴー。
 それから青年は目を覚ます。どんな夢を見たのかは憶えていない。しかし……きっと、昔の? どうなんだろう。いまの夢を見ればいいのに。夢の中でさっさと殺せばいいのに。夢が実現するのは願望なんだろ? だったら、寝ているあいだだけでもスッキリさせてくれ!
 ふいに、だから、ゾッとする。
 集めた髪の毛のことを思い出して。小学校を卒業するまで、おれは何人分、集めた? 十……二、三人? おれは“終わり”にした連中の、頭の毛をたばねて捕ったんだ。あれって戦利品だったから。センリヒン、っておれは呼んでた。
 学級委員長をやってたのは小六まで。
 生徒会で役職に就いたのは、中二まで。
 なんか、みじめだな。副会長どまり?
 いや、思い出すのはよそう。
 青年はかつての正義について、ふり返る。「正しいこと」をしていない級友を、つねに、報告したこと。職員室や、他人の親や、たまにはじかに校長室に。証拠を添えて。確実なものを添えて、そして“終わり”にした。青年は、やっぱり善意しかおれにはなかった、と想い起こす。いいことをしないといけないから、いいことをしたんだぞ。それを裏切りとかって呼んだ連中は、もっと、もっと悪意に染まっているから、もっと確実に“終わり”にしたんだぞ。それをチクリとかって罵った連中は、おれはすぱっと“終わり”にしたんだぞ。
 クラスのため。
 学校のため。
 制裁もした。セイサイっておれは呼んでた。髪の毛をちょっと切って、「これを思い出して、反省しろ」って言って。
 毛なんて、生えるから。
 悪意はない。
 教育……教育はあった。
 だんだん、そうゆう戦利品を——センリヒン!——集めれば集めるほど、これで“カツラ”が作れるぐらい集められたら、おれはクラスを一〇〇%きれいにしたことになるんだ、って了解できて。それが……ア・ロング・タイム・アゴー。いま、あれ、どこにあるんだろう? 青年は眉間にしわを寄せて、考える。思い出そうとする。無駄だ。どこかで、記憶は切れた。たしか十五歳の時に。「どうしてそんなにクボタはいじめばっかり、するの?」と言われて。「四年生から暴走したでしょう? 校長先生にまで取り入って!」と言われて。
 罵られて。
 毛髪のことを考えるのはやめた。それから、歯を考えた。善をもたらす者の歯。その歯の数。青年の父親はつねに語っていた。自分には歯が四本、多い、と。いいことをしろ。正しいことを、しろ。逆らうな。
 逆らうな!
 一番でいろ。
 先生に、マサヒコこそ一番、と言わせろ。
 逆らうな!
 善は善。正義は正義。洗面所で顔を洗ってから(青年の夢の記憶、その残滓は、ここで完全に拭きとられた)コンピュータを起動させてメールをチェックする。友人から一通。その文面にニュース・サイトのURLが貼ってある。クリックして、記事を読む。知っている人間が逮捕されている。かつて級友だった、大峰、が逮捕されている。青年は「オオミネ」と声に出してみる。小さな記事だ。しかし、二度読む。しかも二度めは熟読した。「オオミネ、おまえは破滅か」と言う。
 けっこうライバルだったのに。
 あいつ、神童だったのに。
 おれは破滅できるか?
 出社する。最悪なことに、親からの電話が入っていて、それを上司がとっていた。上司が、青年の親に呼び出されるような形で。おれが救急車で運ばれたことなんて、課長に言うな。青年は叫びそうになる。あのことは自分で処理したんだから、言うな。おれを心配するな、おれを! しかし、事態は動いてしまっている。上司は上司。通話が終わって、いやな気配が青年のデスクにまで伝わる。密着したデスクからデスクから、デスクへ——へだたりは二メートル半しか、ない。
「クボタ」
「はい」と青年。
「おまえ」
「はい」
「このあいだの週末、病院に担ぎ込まれたって本当か?」
「いいえ、ただの飲み過ぎです。それで、いっしょにいたやつらが携帯——」
「本当か?」
「はい」
「急患で?」
「はい」
「報告してないな?」
「あの、日曜日の昼には、退院しまして。ただの急性アルコール中毒ですから、いっさい会社に迷惑は……」
「上の者の責任なんだよ」
「え……ええ」
「部下のな、そういう状態を把握するのは。責任なんだよ。『上のかたの責任なんですよね?』って、おまえの親に言われたぞ。いま、言われたぞ。なんだこれ? 救急車をつかった馬鹿が、そのためにおれに迷惑をかけて——」
 上司は上司。
「いつもだな?」
 青年は答えない。
「いつもいつも、プライベートがどうだとか、こうだとか、ぬかして、なあクボタ?」
 答えられない。
「全部、報告しろ。いつも報告しろ。おまえを管理してやるんだ。ありがたいと思え。酔っぱらったら酔っぱらったと言え、クボタ。病気になったら病気になったと言え、クボタ。それを、実家には連絡を入れて、こっちにはなしか?」
「あの、あれは、病院のほうから、土曜日の真夜中に、実家に電話が行ってしまって……不可避で……」
「反論か?」
 殺したい、こいつを殺したい、と青年は思う。
 殺せない。
 大口を開けて、また、何かを言っている。おれを罵倒している、と青年は思う。まただ。何も聞こえない。何も聞こえないよ。歯だけが見える。あの歯、汚い歯。何本ある? 何本多い? こんなに正しい上司なら、百本? だから三十二本の永久歯に、いったい、何本多い?
 引き算。
 青年は引き算ができない。
 明日なら会社に刃物を持ってきてやる、と思う。そして“終わり”を、と思う。ア・ロング……ロング・タイム・アゴー。破滅にするぞ、でも、どっちを?
 いいこと、悪いこと。

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