『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

3 いかにして1+1=1は証明されたか?

   
 画家はきちんとチケットを買う。入場チケットを購入する。そこまではオーケーだ。画家は釣り銭がでないように、その意味で「きちんと」チケットを買う。画家は確認する、自分は一万円札を四枚、千円札を七枚、百円玉を八枚、十円玉を三枚もっている、と。すると——4、7、8、3。それで? 語呂合わせでもできるのか? できない。支払いは千円札が一枚と百円玉が二枚、入り用にして、その結果、数字は4、6、6、3に変わる。紙幣と硬貨というエレメントから成る数字は。画家はその四つの中心にゾロ目がきたことが気になる。
 6。
 6。
 そこまではオーケーだ。画家はもたつかない。そもそも目立たないようにと心がけて、だからこそ釣り銭がでないよう配慮した。チケット売り場の人間にも、顔を憶えられたいとは思わない。画家はそれから、市立の美術館に入る。そこまではオーケーだ。帰郷したことだってオーケーだ、と画家は確認した。企画展はなかなか凝っている。力も入っていれば金もかかっている。しかし画家は作品を観ない。鑑賞という文脈では目に入れていない(に等しい)。他人の作品を観たいとは思わない。なのに美術館にきて……歩いている。歩いているというより、足音を聞いている。
 シャッ。
 シャッ。
 ほら、床が音を立てている、と画家は確認する。ふつうに歩いているはずなのに、どうしても“足音”は目立って、それは床に創作されるんだ。床がトラップをかけて、鑑賞者の残像を、サウンドで残すんだ。それが画廊や美術館の、恐怖だ。ぼくが最初にその事実に気づいたのは、ここで——だ。何歳だった?
 6。
 6。
 まさか。六歳じゃ早熟すぎる。でも……九歳……十歳までには了解してた。音は沈黙の大きさによって、背後にともなわれる静寂の度合いによって、その存在の大きさを測られる。では、天才の登場のためには凡才は何人必要か? 画家は、多ければ多いほど、と即答する。そのための土壌はちゃんと用意されているんだよな、だって日本国内に画家は何人いる? この地球上で美大生の数がいちばん多いのが、わが母国だ。きっと。美大とか美術専門学校の生徒とか。そういうのが。それ、全部、画家だ。日本には画家と詩人があふれているんだよな。地球でいちばん。たとえば俳句とか川柳とか、あれ、作ったら詩人だ。わが母国のすばらしきトラディショナルな定型詩。警察の標語だって、たいてい定型詩だ。あぶないよ・カーブに魔物が・隠れてる。そこそこ十七音。5、7、5。きっと警察署内で募集してるんだろうな。日本の刑事はほぼ全員、詩人だ。世界に誇れる。それから画家は、犬が吠えている、と気づく。犬? ああ、サウンド・インスタレーションか……犬が吠えている。美術館内で、犬が吠える。画家は、わん、と思うが声には出さない。画家は、オーケーなんだよオーケーなんだよ、と思う。たとえば美大まで、そこまではうまくいっていた。大学院も。最初の個展も。なんだ、完璧じゃないか? それで? デフォルトで神童だったぼくは、それで? 絵が一万円で売れて、五万円で売れて、立体作品が売れて、それで? 4、6、6、3。いや。5、7、5。なにもない。この二年。二年……模倣しかない。ここにも凡才は用意されている? 日帰りで・故郷に戻る・凡々才。じゃあ引き算しよう。前者から後者を——4、0、8、8。うん。ゾロ目はあるし、ゼロもある。
 ゼロ。
 ほら。
 犬が吠える。それから画家は、はじめて展示作品を視界に入れる。はじめて鑑賞という文脈で。飾られている絵がある。人物像がある。等身大の。だいたい等身大だ、と画家は思う。なにと等身大かといえば、ぼくと等身大だ、と画家は確認する。そこまではオーケーだ。だから画家は、作品のからだに自分のからだを重ねる。犬が吠える……まだ吠えている。だから画家は、額縁のむこう側に行こうとする。なにかに触れる。なにかを割る。するとサウンドがある。人体の存在の……鑑賞者の存在の、残像が。割る者、破壊する者、むしろ“恐怖”そのものと化す者。画家は自分のからだを1と数えて、正面に描かれているからだを1と数えて、その二つを足して、ただ1にする。犬が吠えている。警報が鳴り、だれかがこの証明の結果を2にしようと切り離す。そのことを画家は許さない。血が流れる。

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