『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

4 いつごろ満員電車は出発するのか?

   
 いきなり話しかけられた。あたしは心構えしていなかった。しているもんか! そもそも間違った時間の間違った席にいたのだ、あたしは。だから、よろこびにひたっていた、まだ演奏もはじまってないのに。
 だって、あたしはその公演のチケットを買えなかったんだし。
 それで、一度はあきらめたんだし。
「時間どおりにスタートって、思います?」と隣りの席の女の子が言った。
 あたしの知り合いじゃない。
「はい?」
「開演。思います?」
「えっ……」
 だから、準備してないって! いきなり質問されるなんて。あたしはしかたがないから、携帯電話で時間をたしかめる。なんだか、そんなそぶりで。間を持たせるってゆうか。
「ほら、七時が開演じゃないですか?」と女の子はつづける。「もう、残り十分切りましたよね? でも、この武道館のずっと外まで、まだ人がいっぱいだったじゃないですか? 入り切れてないってゆうか」
「どうなんでしょう」とあたしは言った。
 そう言うしかない。あたしに武道館の段取りなんて、わからない。はじめて来たんだし。それに、武道館だってことが、最悪だったんだし。
 どうだろう?
 それを最悪だって思うあたしが最悪かもしれないって、あたしはずっと思ってる。
 だいたい、はじめから不意打ちばかりだった。どうしてチケットが、即、完売しちゃうのか? あたしが「瞬殺……」なんて言葉をつかうはめになったのは、どうしてか? でも、どうしてあたしが買えないのか? あたしはずっと聞いてきた。ずっとファンとして応援してきた。あたしこそが、この人たちをいちばん好きなんだって、そんな心構えで。心構え!
 でもチケットは瞬殺。
 状況が変わったから?
 人気がでたから、むかしから聞いている人間がふり落とされるの?
 やっぱりだ、とあたしは思った。あたしの愛情なんて、こんなだ。いつも。
「いい席」と女の子が言った。「見やすいし」
「そうかも」とあたし。
 二階席で、でも、手すりの前だ。ステージがしっかり見下ろせる。
 あたしの席もいい席だ。
 愛情とチケットは等価ではない、と叩きこまれた発売日から、あたしは毎日——じっさいには日に二度——インターネットのオークション・サイトをあちこち飛びまわった。でも、値段的に手がでない。きっと転売目的で、いちばん最初に大量に瞬殺されたんだ。だから……武道館なんかでやるから! オーディエンスの雰囲気だって、すっかり変わって。きっと変わったね、とあたしは思った。
 でも、こうゆう考えかた、やっぱりファンとして最悪?
 そもそもあたしは変わらないのか?
 ぜんぜん変わってないの?
 不意打ちの二番めは昨日だ。この席のチケットが出品されて。しかも定価で。あたし、落札できちゃって。しかも気持ちとして、ほとんど瞬殺みたいに、あっという間に。
 そしてあたしはここにいる。
 ここにいられる。
 いさせてもらっている。
 いい席かあ。
 日本武道館はおかしな形をしている。やっぱり闘技場だから? 歴史の授業で習った五稜郭がもっと六とか七とか八稜郭になってるみたいな。あたしは東西南北の「東」の二階席にいて、「西」や「南」の二階席がはっきり見える。たしかに、空いている席がまだポツポツ、ある。
 これ、全部埋まらないとはじまらないんだろうか?
 どうなんだろう?
 満席になると開演?
 どうなんだろう?
 それから、不意打ちの三つめみたいにさっき唐突にあたしに話しかけてきた女の子に、あたしはちらっと視線を送る。横目。まだまだ若い。たぶん、あたしより五歳は年下。そうか、とあたしは思う。きっと最近のファンだ、とあたしは思う。あたしはまた複雑な気分になる。でも、ファッションとか髪型的には、あたしを完全に裏切りはしない。ちゃんとむかしからのオーディエンスに通じるものがある。それに、メイクってゆうか顔の造作とあったメイクがよかった。あんまり下の世代すぎてチャラチャラはしていない。唇あたりがとても可愛い。
 いい席って言ったんだっけ?
 ほめられたわけだね。
 うれしさも倍増だ。
「うん、やっぱりいい席です」とあたしは言った。
「でしょう?」とその子は言った。それから口調を少しカジュアルに替えて、「だよね?」とつづけた。
 連れがいるみたいで、おかしい。
 でも、電車だと話したりはしないのにな、とあたしは思った。たとえば指定席の電車でも、隣りの席のやつとかとは。電車? あたしはどうして、そんなことを想像してるんだろう。そうか……空席と、満席か。そのことを観察したからか。
 比喩で。
 ライブ・コンサートが満席になったら開演するなら、電車も、満員になったら発車しちゃえばいいのに。
 でも、満員……満員ってなに? 満席とちがうの?
 ちがうね。
「そう、いい席なんだぁ」と女の子が言った。「あのね、その席のチケットをオークションに出したの、あたし」
「うそ?」とあたしもカジュアルに反応した。
「いろいろ、あって。席、空いちゃって」
「あ……そう」
 そうとしか言えない。なんだろう、話したいのかな? ちょっと気まずい。あたしはまた時間をたしかめる。あと二分。
「まだ入れてない人、いますね」とあたし。やっぱり会場内にはところどころ空席がポツポツ残っている。なにか、空いているってゆうよりも欠けているって感じ。ちがう比喩が頭に浮かんだ。この空席、この欠けてる感じ、教室。
 教室?
 一つの席だけ欠けていて。その机に、花が飾ってあって。
 だれだっけ、死んだの? そうだ、死んだんだ……あの学校で。
 あたしは思い出した。
 やっぱり忘れてない。あたしは変わってない。変わってない!
 それから隣りの女の子が、あたしを見る。横目とかじゃなくて、じーっとあたしを見ているのが、わかる。あたしは教室のことを考えるのをやめて、やっぱり電車の比喩に戻る。もうはじまるの? もう発車するの? まだなの?
「まだかな」とあたしはその子に問う。年下の、その可愛い女の子に。
「もうちょっと」と女の子が答える。「きっとね」
「予想?」
「間違うかもしれないけど。間違ったら間違ったで、いいじゃん」
「うん、いいよ。そんなのは」
「この席に、いるはずもなかったじゃない?」
「そうだね。あたし——」
 いきなり、なにかが込み上げる。また不意打ちだ。女の子があたしのそばに、顔を寄せてきた。耳もとに、そして言う。とても、とても温かい声音で。「ねえ、あんたって最高にあたしのタイプ」
 会場の灯りが消える。

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