『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

2 だれが焼却炉をうごかしたのか?

   

   
 彼はどうせ終わればいいと思っていたし、動揺はしていないつもりだった。もしかしたら動揺しているのかもしれない、と気づいたのは、料理の味がまるで感じられないと悟ってからだ。じゃあ、おれはいままで、なにを食ってたんだ? トマト、ルッコラ、モッツァレラチーズ。色だけがあるのだとわかった。赤、緑、白。この皿に、三色があるのだと彼は感じた。食材の色彩、三種類だけが。
「まだ前菜なのに」と彼は言った。
「……なのに、なに? メインまで待てばいいの?」
「え?」
 独りごとを言ったつもりなのに、席のむこう側から反論されて、一瞬、唖然とした。メイン? メインがどうしたんだ? おれはメインになにを注文した?
 肉だろ。
 豚の。
 ここに色がある、と彼はそれだけを強烈に感受した。一つの皿を食べることはいろいろな色を口に入れることでもあるわけだ、と彼はふいに理解して、動揺した(ここで初めて自覚をもって動揺した)。すると手もとの皿がべつのもののイメージと重なった。プレートに似た響きの……。
 パレット。
 それだ、と彼は納得した。
 絵具をしぼり出していた、それ。
 チューブから絵具を。だからパレット。ああ、パレットなんてさ——と彼は思った——もう何年もさわってねぇな。だいたい、美術とか図工の時間用のパレット、いまも取ってあるのか? どこかに仕舞って?
 どうなんだろうな。
 消えたような気がする。
 みんな……消えるのか?
 いや、一つはおれが消した、と彼は思い出す。おれが自覚して、しっかり自覚的に処分したんだ。わざわざ燃やして。だから、絵を。おれが描いた絵だ。おれが描いたおれの絵だ。自画像。うん。
「なあ」と彼は口を開いた。
「いいわよ、言って」と決然たる態度で彼女が応じた。「言い返したいんでしょ?」
「訊きたいんだけど」
「どうぞ」
「おまえ、転校生だったよな? たしか小学生のとき。二回?」
「……それが?」
「転校生って、どうだろうな?」
 意味わかんない、と返答する彼女の言葉を、しかし彼は聞いていない。自分がかつて絵具が好きだったことを思い返して、やや呆然としている。絵具が、色が。パレットも。そんなの、忘れてた。どうして忘れてた? だって絵がうまかったわけじゃないしな……。ああ、いたな、クラスに。上手なやつ。名前は、名前は……オオミネ? 漢字、思い出せねぇや。
 それで、自画像。
 小学生にそんなもの描かせたのか、あの先生。
 担任の。
 アンドウ先生。
 そう、こっちは思い出せる。安いに、ヒガシで、安東。
「ちゃんと描けよ、持田」って言われた。その安東先生から。
 その頃、おれは色が好きで。
 おれはその頃、絵具、大好きで。
 で、自分が何色でできているのか、考えて。観察したんだ。ちゃんと塗りわけた。緑や、黄色や……。髪の毛は赤に、オレンジ。あれはグラデーションだったな。そうしたら「ふざけてる」って言われた。「おまえはなにも観察してない」って。
 鏡をちゃんと見たのか?
 どうしてほかの人たちとおんなじふうに、持田はできないんだ?
 ほら、オオミネを見ろ。
 毛の一本一本も、ていねいに描いて。
 なのにおまえは。
「ぜんぜん意味、わかんないんだけど」と彼女は繰り返した。席のむこう側で。
「転校生がいいとか思ったこと、あるかなって考えて」
「それ、妬み?」
「いや」と彼は言う。
 それでおれは自画像を燃やした、と彼は思う。放課後、わざわざ焼却炉に運んで。焼却炉に、突っ込んで。
 焼却炉は体育館のそばにあったよな。それと、先生たちの駐車場の、あの区画の。二つの……二つのそば? 待て、プールと体育館のあいだじゃなかったか? おかしいな。配置が思い出せない。おれの記憶のなかで焼却炉の……焼却炉の位置が、ずれる。
 だれがうごかしたんだ?
「記憶がずれるよ」と彼は言った。「六年間、転校できないでいたほうが、きっと」
 あきらめたような顔つきで、彼女はみずからに供された料理の皿の食材を(それは四色だった。彼は色彩が四種類ある、あっちは、と無自覚に視認した)、フォークのさきで刺す。この別れ話の席で。

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