『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説
<2> 作家の言葉ではなく、書かれた本に正解がある
── 意外なのですが、web上に掲載されることをとりわけ意識して書かれた作品というわけではないのですね。
とりわけ意識してはないですね。ただ、どの作品も、どういう媒体でどういう編集者でどういう版元なのかというのは大きく関わってきます。そこからは逃れられないし、逃れる気もない。だから、今回は河出書房新社という出版社で、原稿を渡す相手がこの編集者で、web連載ということは、作品の発生における一番深いところを1ミリ上くらいのところで大きく影響しているはずです。
── 『LOVE』と『MUSIC』、『ゴッドスター』、『冬』というふうに、ある傾向に分けられる気がします。『4444』というタイトルの反復する感じは 『ハル、ハル、ハル』』に連なっていますね。
後で気づいたとき、困ったんですよね。(河出書房新社から)文庫化された『ボディ・アンド・ソウル』も含めて、銃弾を撃ってるみたいなタイトルしか河出には集まらない(笑)。
── 確信犯なのかと思ってました。
無意識に選択しています。無意識に選択してるということに自分で気づいてるから、どこで誰とどうやるかということを気にしてますね。会う人によって自分って変わるでしょう? それを忠実に反映させて作品は生まれてくるんだと思う。僕は無意識過剰だから。
── それにしてはグラデーションがれっきとして現れていますね。
やっぱり本能のほうが正しいところを撃ち抜くんです。だから考えてない方が正解になる。たいてい書かれた本の方が正解で、作家としてインタビューを受けてる僕の方にバツが入るんですよね。ときどきハッと気づきます、「俺の言ってることは間違ってる気がする」って。
── ではこのインタビューも......
僕はインタビューごとにちがうことを答えてるんです。それは嘘をついているわけではなくて、インタビュアーが求めてることを答えてるから。人の数だけ答えがある。読むということも同じでしょう。『4444』を4444人が読んだとしたら4444通りの感想がある。ひとつの作品に対してひとつの読み方っていう幻想は崩したいですね。
── のちほど詳しくうかがいたいのですが、それは古川さんの作品における記憶の扱われ方と同様ですね。いかに集合的に見える記憶でも、人の数だけ記憶のあり方は異なり、決して一致することはない。
ええ。ただ社会的にはそれは不自然だとされるんだろうとも思います。『MUSIC』で1日3本のインタビューを受けたときはクラクラしました。これほど自分のパーソナリティの輪郭が狂いまくるともたないと思いました。
── ええ、インタビュアーも感動すると思いますよ。他で語っていないことを語らせたいわけですから。でも、主体というもののあり方に関わってきますよね。通常、統一された記憶に同定されることで社会的な主体として信頼されると思うのですが。
信頼ということでいうと、相手によって語ることがずれるというのは、相手がいないと成立しないことを毎回生むということなんですよ。それは、相手を必要としているということだし、相手もこちらを必要としているとも言える。つまり、ひとりひとりと契約する行為なんです。このことはあまり考えられていないですよね。もし僕が必要じゃないんだったら、僕もあなたも要らないっていうスタンス。僕はそれをラディカルなまでに徹底的にやってるんだと思います、小説も生き方も。
── 『4444』の大切なキーワードである「1+1=1」がまさに思い出されます。最初に目にしたときは「私たちはひとつの世界に生き、その調和のもとに生きているのだ」というような解釈を導きやすい数式だと思いました。けれどおそらくそうではない。安東先生のセリフで「おまえたち一人ひとりが、つまり、=1だ。(中略)おまえたちは無限に、1だ」とあります。このセリフの有無によって解釈がまったく変わってきます。
全然ニュアンスがちがいますよね。ニュアンスというか、本質がちがいますね。
数のことを考えていくと、小説を書いているはずなのにどうしても横道に逸れることがあるんです。
── 古川さんのどの作品からも数字への偏愛が感じられます。数字にはフェティシズム的な執着がありますか?
言葉と同じなんです。フェチではないと思いますよ。数字は言葉と一緒だから、言葉と同じくらいの偏愛をもっています。でも数字の方が要素が少ない分、強い。日本語はアルファベットとちがって要素が異様に多いでしょう。おそらく世界で一番要素が多い言語である日本語と、0から9までしかないっていう数字のミニマムさ。その両方でつくり上げるものは、まるまる宇宙そのものなのではないかと。