『4444』刊行記念 古川日出男ロングインタビュー 読むたびにかたちを変える小説

38 どちらを取るか、ゲームとマジ?

   
 おれは館長と会場で待ち合わせをした。会場は市立のスポーツセンターだった。そのセンター内の武道場だ。武道場とそうでないスペースの違いは、床だ。たとえば畳の床でできるスポーツは、限られている。そういうことだ。
 そのスポーツセンターは公園みたいな敷地の真ん中あたりにある。
 真ん中だったかな?
 もしかしたら、そこ——その公園みたいな敷地をただ単に横切って辿りつけるってだけかもしれない。おれは把握が甘い。こういう施設に通うなんて思ってなかったから、いま現在も流されている。
 おれはもともとスポーツになんて縁がない。
 気がついたら、まあ、闘っている。
 それでおれが何を問題にしているかっていうと、アマチュアのおれが出場するその格闘技のトーナメント戦の、はじまりが午前十時だってことだ。これは、朝だ。わかるやつはわかると思うけれども、朝はからだが硬い。硬かったり、まあスムーズに動かなかったりする。すると何が起きるのかといえば、動きが鈍いから、負ける。
 つまり午前十時より前に、どうにかする必要がある。
 おれは館長と午前九時十分に待ち合わせをした。
 それからウォーミング・アップする。道着に着替えて。
「なあ高梨、横になれ」
「こうスか?」とおれ。
「そうだ。力、脱け。いいか? 右足をとるぞ。そう、九十度上げておけ」
「はい。あ……」
「もう少し、叩いとくぞ。ここのな、腿の裏側にパンチ入れておけば、あとでな」
「つぎは左スか?」
「そうだ、左足」
「はい。で……」
「おう。膝が瞬発的に出るようになるんだよ。考えるより前にな」
「膝蹴り?」
「そうだ」
 おれがやっているのは空手ってことになる。しかし、ジャンルは喪失した。この大会はアマチュアの、“立ち技”のトーナメントだから、どこかで異種格闘技戦の様相を見せる。中国拳法のおかしな連中がいっぱいいる。でも、あの手のやつらだって、カンフーシューズは脱がされる。
 裸足がルールだ。
 武道場だから。
「館長」
「しー」
「え?」
「七人しか道場生のいない流派で、人前で“館長”って呼ばれるのは、その、な……」
「いいじゃん」
 おれは、ため口をきいてしまう。館長はおれより三つ年下だ。仕事で知り合って、仕事を離れて呑んで、流派を興したと聞いて、意味不明だったから詳細にたずねて、一度参加しようよと誘われて、レンタル・スペースの道場に足を運んで、ミットを蹴ったら意外にストレス発散できて、カタ——踊りみたいな型(そこにいろんな技が含まれている)の練習はきらいだったが覚えたら褒められて、気がついたら「入門」させられていて、その後に二十七人が入門して二十六人が消えて、でも以前からいる人間はやめずにして、おれは入門した以上、館長にこういう場では呼び捨てにされて、高梨、とだけ呼ばれて、試合に出ようよと誘われて、しかし日程が合うのがおれだけで、おれ一人がこのトーナメントに出る。
 まいったな。
 何がまいるのかといえば、負けるよりは勝ちたい、と思う自分がだ。
 一勝はしたい。
 つまり二回戦には出たい。
 トーナメントだから、二回戦には勝ちあがりたい。
 まいったな……こんなものにマジになるつもりはなかったんだよな。
 人間の精神って、精神っていうかプライド? なかなか困ったもんだな……。
「あれ? 高梨、今日はやけに柔らかい?」
「からだスか?」
「おう」
「ストレッチ済みです」
「じゃあ、会場入りする前に? 家で?」
「あー、その、走ってきたんで。それから公園で」
「疲れすぎてない?」
「いや、その、あー……おれ、二週間前から朝型に変えて、ずっと走ってるんで」
「マジ?」
 そりゃマジだよ。おれは思う。
 ゲームだからマジだよ。
 勝敗出すために、そのために。目的はゲーム。
 ゲーム……なのか?
 おれがわかったのは、わたったというか空手をはじめてから理解したのは、強いとか弱いとか、そういうのは状況設定によるということだ。しっかりとウォーミング・アップしたやつとそうじゃないやつだったら、前者が勝つ。酔っているやつと酔っていないやつだったら、後者が勝つ。だから午前十時からの試合なら、午前十時にはベストな肉体に調整済みのやつが、たぶん、勝つ。
 それは面倒なことだ。
 起床時間を決めて、朝食の時間を決めて、朝食の——栄養素の内容を決めて、消化にかかる時間を計算して、それプラス運動、となる。
 面倒だ。
 だから、たいていのやつはやらない。会場に入ってから、全身を温めるって程度だろう。だとすると、それに三時間先んじれば、勝つ。
 おれは調整してある。
 おまけに膝蹴りも、今日は出るらしい。
「膝、瞬発的に出るんですよね、館長?」
「出るぞ」
「瞬発的に、膝、出ますかね?」
「考えてたら、出ないなあ」
「うす」
 おれは、オス——例の“押忍”とは言わない。あまりに空手っぽいから。そんなことを言わされる流派だったら、体験稽古というか体験入門でやめた。さいわい、館長は“押忍”主義ではなかった。
 で、うす。
 午前九時五十分。
「さあ、リラックス」と館長。
 助言されずとも、おれはリラックスしている。
 午前十時の少し前。
 ほんの少し。
 そして午前十時。
 呼び出しがある。一回戦二組、タカナシ君——と。そう、試合は君付けだ。おかしな世界。相手も君付け。ワイズミ君。
 しかし呼び出しの訂正がある。ワイズミ君はただのイズミ君だった。きっと「和泉」って二文字の漢字で書く苗字だ。
 これはタカナシ君、対、イズミ君だ。
 イズミ君の顔はこわい。しかし、身長はさほどでもない。一七〇センチない。
 そうか。
 それじゃあ。
 午前十時。ここでは二つの試合が同時に行なわれる。おれは二組。ニクミ……二組? おれの頭には四組ってコールが響いた。反射的にクラスの番号はそうなる。すると、午前十時からひとつの苗字が引き出された。十時って書いて、トトキって読む。あの子。
 そうだ、あの美少女。
 糞。
 告白しとけばよかった。
 おれは小四で初恋して——。
「高梨!」
 館長の声が響いた。それを合図に力を脱いた。でも何も考えていないおれは、膝蹴りは出さず、何も考えないままに相手のタッパを目測して、完璧な上段回し蹴りを出していた。
 そう、ハイキックが出る。
 おれと勝敗を争っていたイズミ君が、倒れる。
 あ。初恋?

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