世界の終わりに居合わせる大魔法使い ――サン・フェアリー・アン。 落ちこぼれの科学少年 ――ムギ。 二人は出会い、何かが生まれる……!

<世界の終わりの魔法使い>とは?

漫画家・西島大介が単行本の描き下ろしシリーズとして発表した、ファンタジー漫画です(通称〈せかまほ〉)。
第1部『世界の終わりの魔法使い』は、1冊読み切りの作品として刊行されましたが、次第に世界観が広がり、第2部『恋におちた悪魔』、第3部『影の子どもたち』と続篇が描かれました。
第3部でムギの物語は完結しましたが、サン・フェアリー・アンはまだまだあばれたがっているようです。事実、〈せかまほ〉特別篇『世界の終わりの魔法使い~小さな王子さま~』(講談社「モーニング・ツー」連載)でもあいかわらずの活躍を見せています。
今後も〈せかまほ〉ワールドはどんどん広がっていくかもしれません。

最新刊 !

『世界の終わりの魔法使い』

世界の終わりの魔法使い
魔法なんか信じない。
でも、君は信じる。

科学が滅んだ時代の魔法の村。なぜか魔法が使えない少年は、ひとりの不思議な少女と出会い……読めばゼッタイもらえる勇気! 〈せかまほ〉第1弾。

『世界の終わりの魔法使いⅡ 恋におちた悪魔』

世界の終わりの魔法使いⅡ 恋におちた悪魔
やっとわかった!
ぼ…僕!!
君にだけは本気ッ!

時は1000年前、人類対魔法使いの最終戦争――魔法大戦のさ中、落ちこぼれ少年と魔法使いの少女、2人の思いが歴史を変えた。第2弾、始まりの物語。

『世界の終わりの魔法使いⅢ 影の子どもたち』

世界の終わりの魔法使いⅢ 影の子どもたち
君は僕に見せてくれた。
信じられないものを……
いっぱい!

1000年ぶりに帰還したアンの故郷・惑星ノロは、魔物たちが支配する星となっていた……アンとムギの最後の冒険が始まる。3部作完結篇。

著者プロフィール

西島 大介

ニシジマ ダイスケ

1974年生まれ。漫画家。2004年、描き下ろし単行本『凹村戦争』(早川書房)でデビュー。
著書に『ディエンビエンフー』(小学館)、『土曜日の実験室―詩と批評とあと何か』(INFASパブリケーションズ)、『アトモスフィア』(早川書房)、『アトムちゃん』(角川書店)、『魔法なんて信じない。でも君は信じる。』(太田出版)等。
著者公式サイトは「島島

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2012.03.23

ディエンビエンフーの休載と311以降の連載について。

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プー!あるいはシンチャオ! 西島です。

2011年に9集が出ましたが『ディエンビエンフー』はそれ以前から雑誌掲載から描き下ろしに移行しています。これは何かのトラブルではなく、相談したうえで決定したことですし、僕はもともと描き下しデビューによる『凹村戦争』でマンガ家としての活動をスタートしているから、「連載なし」というのは自分のスタイルにぴったりと考えていました。現在もネームや物語完結までの全体の構成をまとめる作業は進めています。

と言いいながら、現在モーニングツーで『すべてがちょっとずつ優しい世界』を、JUMP改で『Young, Alive, in Love』をげんきいっぱい連載中。『ディエンビエンフー』ほったからしでは? と思われてもしかたないですね・・・すみません。

現在連載中の作品は、あまり声高に言わないようにしていますが、どちらも明確に原発事故由来のテーマです。そこまで言わないまでも、311以降の僕の考え方が反映されています。ツイッターでたまにつぶやく謎のキーワード「除染と除霊どちらも視えない」「UMAも裏社会、視えそうで視えない」「ゴーストバスターズは背中に無認可の小型原子炉を背負いゴーストを捕まえる・・・」などは、この原発事故以降の世界を良くするための思考です。

311以降においての創作、想像力の役目も考えます。例えば僕は「ラジウムおばさん」「汚染水を飲む」という言葉にどうしてもひっかかってしまいます。言葉として面白すぎるというか、現状原子炉がどうなっているのか放射能は安全なのか政府への不信はどうすれば・・・という議論を超えて、強い印象を残す言葉です。つまり想像力の言葉として秀逸すぎるのです。ウケるーっていう。で、作り手はまず「ラジウムおばさん」みたいな強い言葉と戦っていかなくてはならいなと思うわけです。それよりもクレイジーな斜め上を飛んでいく発送をしないと負けてしまう、とすら考えています。

(ちょっと意味が良く分からないかもしれません、思考が先走っています。ぜひ二つの連載を読んでください)

『ディエンビエンフー』は1960年のベトナム戦争を描いた物語です。原発事故とその後の報道の流れを受けて、僕は「あ、なんかこれベトナム戦争みたいだな」と感じました。東電定例発表(問題はないと評価している)はウエストモーランド将軍の定期報告会(アメリカは順調に勝利している)みたいだなと思ったし、慣れない単位が飛び交う原子力発電には「人間コンピューター」と呼ばれたロバート・マクナマラ的なマッド・サイエンスを感じる。右も左もわからず一旗揚げるべくベトナムの戦場に駆り出された写真家やジャーナリストは、IWJやニコニコ動画のクルー、ニュースでは流れない動画をUPする個人のようだなって思いました。ネットの発達によって、ベトナム戦争のときのような(もちろん僕はそれを目の当たりにはしていませんが)ジャーナリズムが少しずつ戻ってきているような気もします。

要は僕は今のこの状況を「なんだかちょっと戦争のようだ」と感じています。久々訪れた渋谷が暗かったときも同じように感じました。『ディエンビエンフー』を描くことで僕にとって最も身近な戦争は第二次ではなくベトナム戦争。なんだかベトナム戦争みたいになってきたぞ、そんな風に考えています。しかし僕は現在を生きる人間でもあるので、この現在こそを今すぐにでも描きたい衝動にもかられています。無謀な戦場カメラマンのように。その結果が、『すべてがちょっとずつ優しい世界』『Young, Alive, in Love』、ふたつの新連載です。

分析すると、僕はベトナム戦争に遭遇したカメラマンのような気分で、311に向かい合っているのだろうなという気がしています。というか、『ディエンビエンフー』を描くことで311以降の世界に対する心の準備はできていたのかもしれないし、いやそもそも『ディエンビエンフー』という作品にこそ原子力は内包されていたわけで(ヒカル・ミナミは広島に原爆が落ちた日に生まれたリトル・ボーイです)、えーとえーと。そんなふうに僕の思考はこのごろ1960年代と2011、311以降を行ったり来たりしています。

とにかく言いたいことは『ディエンビエンフー』をほったらかして311モードになっているわけではないということです。『ディエンビエンフー』と同じような動機でふたつの新連載に取り組んでいます。ふってわいた原発脳ではないよ、『ディエンビエンフー』忘れてないし考えてるよ。そんな気分なのです。

ネームは10巻の4話目まで進んでいます。あいつもこいつも死にまくっているんで、親愛なる読者のみなさまそこんとこよろしくー!

(西島大介)

 

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