「友達100人できるかな」という歌がありますが、正直、納得がいきません。まず、「できるかな?」と問いかけてきているのは誰なのでしょう。その主体が明らかにされないまま、「うん、100人作るよ」と答えてしまう素直さは、これから社会に出ていく上ではとっても危険です。先生かもしれないし、親かもしれないけれど、闇ビジネスの悪人かもしれないし、「みんなが友達100人作る時間を利用して自分だけ勉強が出来るようになってやろうと企む同級生」かもしれません。
そして、なにより、友達は100人も必要なのでしょうか。友達の定義は人それぞれだと思いますが、こういう定義はどうでしょう。「自分が○○になって、にっちもさっちもいかなくなった時に手助けしてくれる人」。○○は「お腹が痛くなって」から「借金取りに追われて」まで、様々なパターンが考えられます。いずれにせよ、自分が窮地に陥った時に手助けしてくれる、これが友達です。その時に、どれくらいの人数が必要か。100人も要らない気がするのです。むしろ、友達が100人も出来てしまうと、君が熱を出す→立て続けに見舞いにやって来る、これでは、治るものも治らないでしょう。最大5人くらいで十分ではないでしょうか。
書き初めで、「希望の光」と書いた記憶があります。とっても漠然とした言葉ですね。何を望み、何がやって来れば、それが満たされるのかが一切分からない言葉です。「希望の光」という言葉には、「沖縄の島」とか「焼肉のタレ」とか「猿山のボス」とか、そういった具体性がありません。「希望の光」とは一体なんのことだったのでしょう。先生は僕たちに、何を感じて欲しかったのでしょう。この「14歳の世渡り術」シリーズは、そこら辺に転がっている情報に惑わされずに自分なりに物事を考えていくスキルを学ぶシリーズだと思っていますが、その為には、「家に帰るまでが遠足」「友達100人できるかな」「希望の光」……このような、「よく言われがちな言葉」の真意を考え抜いて、裏返しにしていく必要があるのではないでしょうか。(T田)
……ひと言でいえば青春小説。誰もがなんとなく箱に入れ、引き出しの奥にしまっている話。
でも、「イイ話」とラベルを貼りたくない、何か気になるところがある。あり余ったエネルギーをそのまま全て注ぎ込む率直さや単純さ、健やかな執念深さといった生々しい姿に触れているうちに、「ああ、こうやって向き合えばよかったんだ」と、思い出す、今も有効な、目が覚めるようなところが随所にあります。
子どもの頃は、「自分らしさ」というものについて、人から教わることがあまりない。勿論、言葉をはじめ、歯を磨いたり、食事をしたり…は山のようにあるけれど、自分の世界のルールを決めるのは自分。問題に突き当たっても、手持ちの知恵で何とか乗り越えて行く。無駄も出るし傷つくけれど、それが自分を支える力になる。本書の主人公も、外から仕入れたやり方ではなくて、自分がもつ最小限の道具で課題にあたる。「道具」とは、具体的には感受性やプライドや、憧れへの強さなど、誰もが手元にあるもので。大人になると知恵がついて、マニュアルの本や雑誌の記事もあるし、解決方法がいろいろ出てくる。でも、難しい問題を難しく解こうとするからややこしくなるのかも、なんて思いました。
人間関係やあれこれいろいろなことが起こる季節ですが、自分の感覚を頼って吉、であり、いま頑張るべきことが目の前にある人も、ない人も、手にしてほしい一冊です。
本自体は、文章が上手で読みやすいので、さくさくと読めて、さくさくと心に残ります。読み終えたら実際に舞台を観るのもおすすめです。この本は実際に起こったことが書かれているから、いまの姿が現実にある、というところも魅力。しょうもないエピソードは成人した大人の中に山のようにあり、同じ燃料を使ってちゃんと輝いてますよ、というのが分かると思います。

『コンドルズ血風録』
(勝山康晴著/ポプラ社)
(編集部T野)
いや、占い師だから自称なのではなく、殆どの場合において、職業といいますか、働くということは、「自称」の側面を持つはずです。大人だらけの会合に出かけると、お酒を飲んで上機嫌になった人たちが「あの仕事は俺がやった」とか「まとめあげるのに大変だったけど何とかしてみせた」と「自称」しているわけですが、本当のところは、分かりません。今回のような事件があると、そんな占い師なんて信じるわけないっしょ、と思いますが、そもそも、(酒場のように)自分で自分に何かを付け加えてみるか、(占い師のように)他人に何かを付け加えてもらうか、にはそこまで大きな差があるとは思えないのです。
さて、そのタレントのニュースが続き、ブツクサ文句を言いながらも、毎朝のように見続けていました。その後、「3・11から1年」の報道が続きました。ひとりひとりが色々なことを思い出し、考え直す数日間になりました。週が明けると、また、そのタレントの動向がテレビに戻ってきました。被災後を生きる、被災者の皆さんの切実な声を沢山聞いた後での「自称・占い師」の報道、その時、「占い師もタレントも、何だか知らないけど、勝手に生きてろよ」とつくづく思いました。「自称・占い師」にハマる、ハマらないを、毎日知らされることが、いかにどうでもいいことか、ようやく気付いたのです。
「3・11から1年」、色々な媒体で、「この悲劇を忘れてはいけない」と見聞きしました。本当にそう思います。と同時に、その為には、どの物事に頭を働かせていくべきかを常に考えていく必要があるのだなと痛感しました。そんな、数日間になりました。 (T田)
さて、「14歳の世渡り術」シリーズでは、3・11を、明日を担う君たちにしっかりと自分の頭で考え、学んでいってほしいという願いを込めて、『特別授業3.11 君たちはどう生きるか』を今日3月2日刊行します。
国語のあさのあつこさんから、課外授業・ボランティアの田中優さんまで、すばらしい先生方を迎えて、科目ごとに特別紙上授業を行っていただきました。
3・11で何を考え、何を学ぶべきか。
先生方の授業から一部ご紹介しましょう。
◎「私は、みなさんに『私の3.11』というものをしっかりまとめてほしいと思います。数学とか英語のテストと違って正解がないということを前提に、自分にとっての3.11がなんだったのか、あるいは何になるのか、ということを考えてみる」
あさのあつこさん――国語「表現する力をつけてほしい」
◎「歴史は年表ではない。今ここで起こっていることであり、それを踏まえて先に続く道を未知という霧の中で探ることだ」
池澤夏樹さん――歴史「きみは世界史の中にいる」
◎「大震災のときにもっとつよく思い知らされるのは、社会のなかでわたしたちがいかに無力な存在になってきているか、です」
鷲田清一さん――倫理「支えあうことの意味」
◎「日本列島の周辺には四つのプレートが絶えずひしめいており、世界的に見ても『巨大地震の巣』と言っても過言ではありません」
鎌田浩毅さん――地理「日本とはどんな場所か? 今後はどうなるのか?」
◎「税金は、東京圏に限らず、日本国民全員がその能力に応じて支払っているものなので、被害にあった一部の人びとの「大きな」苦しみを、国民全体がより広く『少しずつ』分かち合う、という趣旨にかなっています」
橋爪大三郎さん――政治「いまこそ政治の本当の意味がわかる」
◎「科学技術は、人を幸福にも不幸にもする。ならば利用する私たちが、その技術をどのように使えばいいかを判断することが必要です」
最相葉月さん――理科「科学は私の中にある」
◎「今、『もうこの辺で贅沢はやめよう』という声を持つ必要が問われているのだと思います」
橘木俊詔さん――経済「経済成長より大切なこと」
◎「君たちには『忘れない』ことができる。『ともにある』と言うことができる。そう思ってくれる人が多ければ多いほど、被害地の希望の灯は大きくなるだろう」
斎藤環さん――保健「いま、こころのケアとは?」
◎「今回の大震災のボランティア活動を通じて、今、新たな方向性が生まれ始めている気がします」
田中優――課外授業・ボランティア「『祈り』の先にあるもの」
先生方の熱の入った授業、ぜひご一読ください。
(編集部R)
ひらがなを習いたての頃、ややぶきっちょさんで鉛筆を柔らかく使えず、苦戦中のひとこと。「『あ』って、むずかしいなあ。だれか『あ』をかんたんにしてくれないかなあ」
国語のテスト。かしこいネズミがゾウの背中に飛び乗って川を渡ったというお話で、ネズミが何を使ってどうした?と問われ、「こつ(をつかって)だました」。うーん、深いかも。
おねえちゃんの算数の問題に、「ゆうたくんはクリを8コもらいました。……」というくだりがあるのを見つけ、「ゆうたくんってだれだろう? あのあたらしいマンションにひっこしてきた子かなあ?」。ははは。
こちらに近寄ってきて言うには、「パパにもんだい。せかい一高い山ってなあんだ?」「エベレスト」「ブブーッ。ざんねん。正かいは『おとうさん』」。おとう山? 喜んでいいんだよな、これ……
(編集部F)
]]>私自身は一度も学級閉鎖を体験したことがなく、強いあこがれがあります。
ぎりぎりの線まではいったんです。あとひとり休めば成立、というところまでは。
教卓で先生が生徒の人数を数えて、まさに学級閉鎖を宣言しようとしたところへ、ガラリと遅刻者が入ってきたときの脱力感と言ったら!
「もう今日休めよ。空気読めよ」と言った先生。あれが初めて「空気読め」という単語を聞いた瞬間でした。
まあ、その人は毎日遅刻してくる人だったので、私達こそ浮かれていないで勘定に入れとけよ、とあとで思いはしましたが、それくらいワクワクしていたんです。
大人になるとインフルエンザはまったくいいことがありません。
予定が狂うし苦しいし、ムダに休みも取らなきゃいけないし。
恐れてしきりと手洗いうがいを敢行しているのですが、警戒していない人たちが物の見事に感染していくので、敵の力がどんどん増大して義勇軍の闘志も風前の灯です。
みなさまも無事でこの冬を乗り切れますように。
続けていたものを一度怠ると、どんどん再開のハードルが上がって行きます。
ひさしぶりなのだからそれなりのことを!など、余計なことを考えるのです。
ひんぱんに行っていた店にしばらくご無沙汰すると、道で店主に合うのも気まずくなるのとよく似ています。
うっかり顔を合わせようものなら「ひひひひさしぶりですねなんだかばたばたしていてええもう近々伺いますもちろん」と言いながら足はあとずさりしてしまう。
店主からすれば、来てくれなくなるより、たまにだって来てお金を落としてくれたほうがいいに決まっているのですけどね。
自意識は厄介、というお話でした。
さて、新年のご挨拶といえば、「あけましておめでとう」ですね。
私、この挨拶が下手なんです。
この挨拶に返す言葉の正解は、オウム返しに「あけましておめでとう」です。
しかし、これも自意識の問題かもしれませんが、つい、
「ありがとうございます」
と返して相手をきょとんとさせてしまうのです。
年明けたのは自分だけだとでも思っているのでしょうか。
今年はもっと大局を見られる人間になりたいものです。もう一ヶ月以上過ぎましたが。
〈目次〉
はじめに 裁判は他人事やない
第1章 裁判入門! 今日もどこかで開廷中。
第2章 もっと教えて!! 裁判員制度
第3章 そのとき、きみならどう裁く? ——模擬裁判・河出山中学傷害事件
第4章 死刑ってなに? えん罪ってなに?
おわりに
(編集N山)
]]>逆も然り。バカではない人は、「風邪をひいていないのに、これは風邪ではないかと勘付く能力が高すぎる」可能性があります。
「いやー、最近、風邪が流行ってますよね」という、お決まりの挨拶がありますね。どうも好きになれません。「流行ってますよね」という挨拶があるならば、「最近、めっきり風邪が流行りませんね」という挨拶もあるべきですが、私は一度もその挨拶を聞いたことがありません。ジッと、風邪が流行っていないタイミングを見計らっているのですが、なかなか「最近、風邪が流行ってますよね」という声はやみません。
要するに、風邪は常に流行っているのです。そして、流行った風邪を前にして、皆さん、「困っちゃうよね、風邪が流行っちゃって」と言い続けます。お分かりですね。なぜ風邪が流行るか、それは「これって風邪かも」という感知する能力が高すぎるからです。
就寝前に熱を計ると38度5分、だったとします。でもその時に、「あれ、お昼に熱いラーメンを食べたからかな」と思えばいい。そうやって、あなた自身が風邪のハードルを下げれば、風邪の流行りなんて、おさえることが出来ると思うのです。

(編集部 T田)
***
12月になりました。街がクリスマス色ですね。
さて、もう10年くらい前だと思うのですが、日曜日の夕方に放送している某国民的アニメ「○ザ○さん」で、サンタさんにまつわるエピソードで抗議が寄せられたという都市伝説を知っていますか。
いや本当にあった話なのですが…ご存じない方のためにざっくり説明しましょう。
タラちゃんは、ロボットが欲しいと書いた絵手紙(まだ文字が書けない設定なので)を、誰にも見せずにポストに投函しちゃいます。サザエさんとマスオさんはその手紙を見て、プレゼントを決める予定だったのに、大誤算!
聞き出そうとしても、「秘密ですぅ うふふぅ」と言って教えてくれない。サザエさんとマスオさんがあれこれ手を尽くした結果、「おもちゃの車」と判断。おもちゃを買ったマスオさんが、勝手口から家に入っておもちゃを隠し、夜を待ちます。サンタさんを待つと言ってなかなか寝ないタラちゃん(定番!)。
フネさんの子守歌でようやく寝たタラちゃんの枕元にプレゼントを置きます。翌朝タラちゃんは「ロボットを頼んだのに、どうして車ですかぁ?」と不思議顔。お友だちに話したら、お友だちは「ボクは車を頼んだのにロボットだった!」→「サンタさんが間違えちゃったんですねぇ~」と解釈して、おもちゃを交換する…というエピソードです。
ほほえましいお話ですよね…?
私、抗議内容が全く思いつかなかったのですが、世のお父さんお母さんにしたら、かなり致命的な内容だったわけです。このエピソードのNG、気付きますか?
何度も言いますけど、私はもう子ども心はないし、親でもないので親心もわからず、全く気付きませんでした。
親=サンタクロース という図式をあからさまに放送してしまっている! 子どもの夢を壊すな!という苦情が寄せられたらしいです。
それを聞いて、はじめて「ハッ!」って思いましたよ、私…。
えーーー…!そうか…。
今でもチビッ子はやっぱりサンタさんって信じてるんですか?
いったいいつまで?
私は子どもの頃、親が枕元にプレゼントを置いているのは知っているのに、親が翌朝「えーサンタさん来たの。よかったね」的になっているのが、とても気恥ずかしかった覚えがあります。
ちなみに、これはサンタ自体を信じていなかったわけではなく、サンタはいるけれど、外国(北のほうの国)の人だから、「日本には来ない」、ましてや「日本語の本とか、日本のキャラクターのおもちゃとか入手するわけがない」と信じていたのです(歪んでます?)。
外国っぽいメーカーの木のおもちゃとか、洋書の絵本とかが枕元に置いてあったら、「今年は日本まで来たのか!」と信じたと思います。
ちなみに、友だちに話を聞くと…
「両親からはイブの夜にプレゼントをもらい、朝起きると枕元にサンタさんからのプレゼントがあった」という恵まれすぎている子。
「サンタさんはウチには来ないから、そのかわり、これは父さん母さんからのプレゼントだ」とはっきり言われて、両親にプレゼントを手渡しされる子。
「弟にサンタは親だと言って、弟が泣き、親に怒られた」という漫画みたいなベーシックなエピソードを持っている子。
「10歳になったらサンタは来なくなる」とサンタ的ルールを親に言われて、その日が近付くのを恐れている子。
…などなど、各家庭のサンタ事情がありました。
みなさんのおうちはどんなサンタルールですか?
いつからサンタは来なくなるんでしょうか?
引き際って難しそうですけど…。
(編集部AH)
]]> うんと前のことですが、私が10代の頃の読書は、今思い返しても、本当に楽しいものでした。
なんといっても今のように(仕事柄でしょうけど)、「評判がいいから」とか、「この著者の本は読んでおいたほうがいい」とか、「すごく売れているようだ」といった邪念がまったくなかったのですから。
心の赴くままに、その本に価値があるかどうかなど関係なく読みたい本を手にとり、時代も国境もやすやすと越えて、読んでいる間じゅうその本の中に没頭していたのでした。
私の場合、数学や物理の授業時間がほぼ読書時間になっていて、先生に見つかって厭味を言わることもしばしば。でも、そんなことはへっちゃらでした。
今、果たしてあの頃と較べて、どれだけ読書を楽しんでいるか自分に問いかけて、同じだけ楽しいと答えるだけの自信がありません。
仕事のために読んでおかねばならないという本があるし、数冊並行して読んでいることも多くて、すばらしい作品に出会っても、「すごい!」と思うのは読んだ直後からせいぜい数日位であって、その後何ヶ月も“うっとり”を引きずることなく次の本にいってしまうからです。
だからこそ、何の混じりけのない読書を10代のみなさんには満喫していただきたいと思うのです。
そういえば、中学時代に読んでよく理解できずに終わった本が、後になって再読して驚くほど面白く、印象が全く違く感じられるものがある一方、大人になってから出会って、「ああ、10代に読んでおきたかったなあ」と思う本があります。
たとえば、『悪童日記』(アゴタ・クリストフ)と、『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス)。
どちらも大人が読んでももちろん衝撃を受ける作品ですが、本当に全身で読むことができる2作。
10代で出会っていたらよりいい、お薦めの2冊です。
(編集部R・T)
簡単にいうとヅカヲタ(タカラヅカにハマった女性たちの哀しくも楽しい日常を描いたギャグマンガ。
私自身は特にタカラヅカ好きというわけではないのですが、
なにかにハマったことのある人間のツボを「あるある!」という力で突いてきて、ヤラレタ! とハマってしまったのです。
中高生の頃、私はサッカーにドハマリしていました。
最初は贔屓の選手を応援していればすむ話だったのですが、見ている時間が長くなれば自然と他の選手も目に入り、他のチームも目に入り、
背番号とチームを覚えているのはもちろんのこと、
「あ、あの後ろ姿は××選手」から、
「あのソックスの下がり方は●●選手」とか
「あらやっぱり×△選手は●×さんより背が低いわ。公式発表サバ読んじゃってv」とか
「あの選手とバスで並んで座ってるから顔は見えないけど△×選手だ」
などと、嫌だわ、書いていて、自分でもストーカーとしか思えなくなってきた、という青春を送っておりました。
ので、
「タカラジェンヌの母校(音楽学校入学前の)を訪ねて写真を撮る」とか
「私が死んだらパソコンは叩き壊してほしい 中を見ずに!」とかいう感情、死ぬほど分かって見過ごせないのです。
「贔屓の選手の母校を高校サッカーで応援する(もうその選手はいないのに)」とか
「身のこなしがきれいなイケメン少年がいたら『ユースに入れ!!!』と念を送る」とか
「好きな選手の高校時代の写真を入手」(一応断っておきますが隠し撮り等法にふれるものではないです)とか
していましたもの。情報化社会怖い! すみません!
…‥ま、私は当時から、死んだらパソコンを引き取ってくれる友人を用意していますけどね。
先に死なれちゃ困るから、複数ね。
とはいえ、なにかに夢中になっていない学生時代を考えると、ひたすらぼーっとする以外なかっただろうと思えば(勉強しろよ)、
好きなことなら夢中になって、日本中どこでもひとりで出かける行動力も瞬発力もついたのでよかったと自己完結しています。
情報の集め方もカンが働くようになるし、情報処理方面も自然と知識がつきました。
いいよなあ、人によっては、これが「部活に熱中! バスケに青春かけました!」なんでしょ? 健全ーと
羨む気持ちもなきにしもあらず、ですが。
残念ながら、一度そういうオタク体質になってしまうと
「一度好きになったものを嫌いになれない」ので、
上記の所業をいまだに条件反射で続けてしまうという残念な副作用は残りますけどね。
おかげで友人たちには「この人に少年を近づけてはいけない」(選手になるよう呪いをかけられる)と認識されています。
あの頃はまだまだ精神主義。気合い入れればなんとかなる的なノリでやってました。さすがに水飲むなと言われたり、ケツバットされたりということはなかったですが、私語をしてたらグラウンドを走らされたり、もう足が動かないのにノックの雨が止まなかったり……
あれは間違っていたなあ、と今になって思います。
「気合い」って、ともすると、体をガチガチにさせてしまうんですよね。「全力でプレーしろ」とよく言いますが、野球に限らずどんなスポーツでも大切なのはむしろ「いかに力を抜くか」でしょう。そのほうが動きも軽快になります。全身に気合い入れて部活やってると、いかにも青春している気になって気持ちがよいのですが、そのために上達しきれない選手がゴマンといるのではないかと思うのです。
かく言う私がそうだったという自覚があるのですが、それが証拠に、社会人になってからの草野球が楽しくて仕方ない。適度に力を抜いていられるので、逆にプレーが良くなったりして。ゴロを上手く取るコツはキャッチする直前にスッと力を抜くことですが、センスに恵まれていない凡人が気合いを入れてしまうとこれが出来ない。その余分な気合いを抜くことが、その人の野球を豊かなものにするかもしれません。
そんなふうに思っていた矢先、元巨人/パイレーツの桑田真澄さんの発言にふれて、漠然と感じていたことをズバリ言い当てられたような気がして、目から鱗がボロボロ落ちたものです。
桑田さんは、ひとの体力と集中力には限界があるので、いくら野球が好きでも長時間練習はムダとして、PL高校1年(!)のときに「全体練習は3時間にしましょう」と監督に提案したというのです(朝日新聞2010年7月20日付)。
圧巻は次の考え方。「練習量を増やし過ぎると、動作は徐々にゆっくりになってしまいます。その動きを脳が覚え、身体に染みついてしまう」(同前)。ああ、もしかしたら俺は下手になるためにあんなに練習していたのか……
とはいえ、大人になると、気合いで乗り切らねばならない仕事に多々出会うことも事実でして、あの頃の経験が生きてこないとも言えないのが、人生の趣深いところでございます。
(編集部F)