14歳の世渡り術 http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/ ja 2012-04-27T10:45:57+09:00 小学生時代によく聞いたあの言葉について。 http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2012/04/post_205.html
「家に帰るまでが遠足」、あれは誰が言い始めたのでしょうか。うちの兄は教師をやっているので、半年ぶりに電話で捕まえて「あれって、誰が言い始めたんだろうね」と問うてみたのですが、「知らない」と無愛想な返事。「逆にさ、『ここまでが遠足、あとはご自由にどうぞ』って言ってみたらどうかな?」と提案したものの、「ちょっと用事あるから」と切られてしまいました。

「友達100人できるかな」という歌がありますが、正直、納得がいきません。まず、「できるかな?」と問いかけてきているのは誰なのでしょう。その主体が明らかにされないまま、「うん、100人作るよ」と答えてしまう素直さは、これから社会に出ていく上ではとっても危険です。先生かもしれないし、親かもしれないけれど、闇ビジネスの悪人かもしれないし、「みんなが友達100人作る時間を利用して自分だけ勉強が出来るようになってやろうと企む同級生」かもしれません。

 そして、なにより、友達は100人も必要なのでしょうか。友達の定義は人それぞれだと思いますが、こういう定義はどうでしょう。「自分が○○になって、にっちもさっちもいかなくなった時に手助けしてくれる人」。○○は「お腹が痛くなって」から「借金取りに追われて」まで、様々なパターンが考えられます。いずれにせよ、自分が窮地に陥った時に手助けしてくれる、これが友達です。その時に、どれくらいの人数が必要か。100人も要らない気がするのです。むしろ、友達が100人も出来てしまうと、君が熱を出す→立て続けに見舞いにやって来る、これでは、治るものも治らないでしょう。最大5人くらいで十分ではないでしょうか。
 書き初めで、「希望の光」と書いた記憶があります。とっても漠然とした言葉ですね。何を望み、何がやって来れば、それが満たされるのかが一切分からない言葉です。「希望の光」という言葉には、「沖縄の島」とか「焼肉のタレ」とか「猿山のボス」とか、そういった具体性がありません。「希望の光」とは一体なんのことだったのでしょう。先生は僕たちに、何を感じて欲しかったのでしょう。この「14歳の世渡り術」シリーズは、そこら辺に転がっている情報に惑わされずに自分なりに物事を考えていくスキルを学ぶシリーズだと思っていますが、その為には、「家に帰るまでが遠足」「友達100人できるかな」「希望の光」……このような、「よく言われがちな言葉」の真意を考え抜いて、裏返しにしていく必要があるのではないでしょうか。(T田)

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つれづれ kawade_staff 2012-04-27T10:45:57+09:00
信じるものに向かう人は相変わらず眩しい http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2012/04/post_204.html 新学期、いかがお過ごしでしょうか。東京では満開だった桜も葉っぱが顔を出し始め、ピンクと薄緑が相俟って一番きれいな時期を迎えています。
 そんななか、学ランで踊るダンスカンパニー・コンドルズの『コンドルズ血風録!』という文庫を読み直しています。
 14歳シリーズ『からだと心の対話術』の著者・近藤良平さんはこのグループのリーダーですが、本書は勝山康晴さんというプロデューサーが、結成から世に出るまでの約5年間を綴った一冊。
大学時代、好きな女の子が所属しているからという理由でモダンダンス部に入り、風変わりで我が道をいく、いまの仲間と少しずつ出会っていく。推定築40年、家賃3万、風呂ナシ、トイレ共同、東京・早稲田にある魔窟のような古アパート、朋来居(ほうらいきょ)で夜通し語り合う日々。卒業に必要な単位を落とし、大学5年生を迎え就職活動をする一方で、コンテンポラリーダンスをはじめとする舞台制作の世界に惹かれ、制作の立場で関わり始めて行く。
 好きな「あのコ」とはデートを繰り返しても、相手の反応はなんだか微妙。11回連続でフラれた挙句、クリスマスイブのデートで「私、好きな人ができたの」と終止符を打たれた。
 ダンスのオーディションにも落ち続け、そろそろ腰を落ち着けて、高校の非常勤講師の試験でも受けようかな、と仲間に洩らせば「人生に保険をかけるの、好きだね」「プロデューサーって、えいって、飛ばなきゃいけない時があるんじゃないの?」と、鋭くひと言。将来への道も、何一つ決まらないなか、とにかく得意のがむしゃらさで公演を目指し…ある日、東京の劇場、グローブ座のオーディション合格の報せが届く。

……ひと言でいえば青春小説。誰もがなんとなく箱に入れ、引き出しの奥にしまっている話。
 でも、「イイ話」とラベルを貼りたくない、何か気になるところがある。あり余ったエネルギーをそのまま全て注ぎ込む率直さや単純さ、健やかな執念深さといった生々しい姿に触れているうちに、「ああ、こうやって向き合えばよかったんだ」と、思い出す、今も有効な、目が覚めるようなところが随所にあります。
 子どもの頃は、「自分らしさ」というものについて、人から教わることがあまりない。勿論、言葉をはじめ、歯を磨いたり、食事をしたり…は山のようにあるけれど、自分の世界のルールを決めるのは自分。問題に突き当たっても、手持ちの知恵で何とか乗り越えて行く。無駄も出るし傷つくけれど、それが自分を支える力になる。本書の主人公も、外から仕入れたやり方ではなくて、自分がもつ最小限の道具で課題にあたる。「道具」とは、具体的には感受性やプライドや、憧れへの強さなど、誰もが手元にあるもので。大人になると知恵がついて、マニュアルの本や雑誌の記事もあるし、解決方法がいろいろ出てくる。でも、難しい問題を難しく解こうとするからややこしくなるのかも、なんて思いました。
 人間関係やあれこれいろいろなことが起こる季節ですが、自分の感覚を頼って吉、であり、いま頑張るべきことが目の前にある人も、ない人も、手にしてほしい一冊です。
本自体は、文章が上手で読みやすいので、さくさくと読めて、さくさくと心に残ります。読み終えたら実際に舞台を観るのもおすすめです。この本は実際に起こったことが書かれているから、いまの姿が現実にある、というところも魅力。しょうもないエピソードは成人した大人の中に山のようにあり、同じ燃料を使ってちゃんと輝いてますよ、というのが分かると思います。

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『コンドルズ血風録』
(勝山康晴著/ポプラ社)


(編集部T野)

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読書案内 kawade_staff 2012-04-23T09:25:47+09:00
「自称・占い師」に感じたこと http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2012/03/post_203.html  自称・占い師に心酔してマンションに閉じこもったお笑いタレントのニュースが続いていましたが、どうやら奪還されたようで、報道の嵐はひとまず過ぎ去りましたね。しかし、「自称・占い師」という言葉は気になります。だって、占い師なんて、みんな、自称じゃないかと思うからです。

 いや、占い師だから自称なのではなく、殆どの場合において、職業といいますか、働くということは、「自称」の側面を持つはずです。大人だらけの会合に出かけると、お酒を飲んで上機嫌になった人たちが「あの仕事は俺がやった」とか「まとめあげるのに大変だったけど何とかしてみせた」と「自称」しているわけですが、本当のところは、分かりません。今回のような事件があると、そんな占い師なんて信じるわけないっしょ、と思いますが、そもそも、(酒場のように)自分で自分に何かを付け加えてみるか、(占い師のように)他人に何かを付け加えてもらうか、にはそこまで大きな差があるとは思えないのです。

 さて、そのタレントのニュースが続き、ブツクサ文句を言いながらも、毎朝のように見続けていました。その後、「3・11から1年」の報道が続きました。ひとりひとりが色々なことを思い出し、考え直す数日間になりました。週が明けると、また、そのタレントの動向がテレビに戻ってきました。被災後を生きる、被災者の皆さんの切実な声を沢山聞いた後での「自称・占い師」の報道、その時、「占い師もタレントも、何だか知らないけど、勝手に生きてろよ」とつくづく思いました。「自称・占い師」にハマる、ハマらないを、毎日知らされることが、いかにどうでもいいことか、ようやく気付いたのです。

 「3・11から1年」、色々な媒体で、「この悲劇を忘れてはいけない」と見聞きしました。本当にそう思います。と同時に、その為には、どの物事に頭を働かせていくべきかを常に考えていく必要があるのだなと痛感しました。そんな、数日間になりました。                                     (T田)

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つれづれ kawade_staff 2012-03-18T00:07:56+09:00
小さな祈りを http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2012/03/post_202.html 3・11から一年めを前にこれを思い出し、考えていくために、そして明日を問うために多くの本が出されています。このシリーズの「特別授業 3・11」はその一冊ですが、私たちが出した「なみだふるはな」もぜひみなさんに読んでいただきたいもう一冊です。これは石牟礼道子さんと藤原新也さんの往復書簡集です。石牟礼道子さんは公害病という問題自体がはじめて注目されるきっかけとなった水俣病の真実を患者さんの側によりそいながら書いた「苦海浄土」という作品でよく知られています。チッソという地元の巨大企業が海に流し続けた水銀に汚された魚をとっていた漁民やそれを食べた住民たちにかつてない苦しみを強いながら、長い間、チッソも国もその責任を認めようとしませんでした。この歴史と3・11以降の状況があまりにも似ていて、しかも現在の方がはるかに大規模であることに警告を発しながら、石牟礼さんと藤原さんは、この苦しみの先にうみだされる光明に希望を託しています。しかしそのためにどれほど苦しまなければならないのか。私たちには無理でも14歳のみなさんにはその光明がみえるかもしれません。「小さな祈りを」と、この本は結ばれています。大きく祈るとたいがい失敗するから、だそうです。(A)

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読書案内 kawade_staff 2012-03-06T11:49:19+09:00
3・11から1年 http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2012/03/31_1.html  3・11からまもなく1年。1年と聞いて、あっという間と思いますか? それとも、やっと1年、と思いますか?
 たとえば海外旅行に行ったりすると、1週間でも密度が詰まっていて普段の1週間とは違いずいぶんと長く感じられることがあると思います。それは、何もかも新しいから、「非日常」がそう錯覚させるのだと、ある学者の先生が言っていたことがあります。
 そう考えると、ある意味、この1年間も、「非日常」が多かったので、そんなふうに「不思議と長かった……」と感じている人が多いかもしれません。

 さて、「14歳の世渡り術」シリーズでは、3・11を、明日を担う君たちにしっかりと自分の頭で考え、学んでいってほしいという願いを込めて、『特別授業3.11 君たちはどう生きるか』を今日3月2日刊行します。
  国語のあさのあつこさんから、課外授業・ボランティアの田中優さんまで、すばらしい先生方を迎えて、科目ごとに特別紙上授業を行っていただきました。
 3・11で何を考え、何を学ぶべきか。
 先生方の授業から一部ご紹介しましょう。

◎「私は、みなさんに『私の3.11』というものをしっかりまとめてほしいと思います。数学とか英語のテストと違って正解がないということを前提に、自分にとっての3.11がなんだったのか、あるいは何になるのか、ということを考えてみる」
あさのあつこさん――国語「表現する力をつけてほしい」

◎「歴史は年表ではない。今ここで起こっていることであり、それを踏まえて先に続く道を未知という霧の中で探ることだ」 
池澤夏樹さん――歴史「きみは世界史の中にいる」

◎「大震災のときにもっとつよく思い知らされるのは、社会のなかでわたしたちがいかに無力な存在になってきているか、です」
鷲田清一さん――倫理「支えあうことの意味」

◎「日本列島の周辺には四つのプレートが絶えずひしめいており、世界的に見ても『巨大地震の巣』と言っても過言ではありません」
鎌田浩毅さん――地理「日本とはどんな場所か? 今後はどうなるのか?」

◎「税金は、東京圏に限らず、日本国民全員がその能力に応じて支払っているものなので、被害にあった一部の人びとの「大きな」苦しみを、国民全体がより広く『少しずつ』分かち合う、という趣旨にかなっています」
橋爪大三郎さん――政治「いまこそ政治の本当の意味がわかる」

◎「科学技術は、人を幸福にも不幸にもする。ならば利用する私たちが、その技術をどのように使えばいいかを判断することが必要です」
最相葉月さん――理科「科学は私の中にある」

◎「今、『もうこの辺で贅沢はやめよう』という声を持つ必要が問われているのだと思います」
 橘木俊詔さん――経済「経済成長より大切なこと」

◎「君たちには『忘れない』ことができる。『ともにある』と言うことができる。そう思ってくれる人が多ければ多いほど、被害地の希望の灯は大きくなるだろう」
 斎藤環さん――保健「いま、こころのケアとは?」

◎「今回の大震災のボランティア活動を通じて、今、新たな方向性が生まれ始めている気がします」
 田中優――課外授業・ボランティア「『祈り』の先にあるもの」
 

先生方の熱の入った授業、ぜひご一読ください。
(編集部R)

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お知らせ kawade_staff 2012-03-02T11:53:53+09:00
おとながわすれたもの http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2012/02/post_200.html 我が家には小学1年生の娘がおりますが、言葉をめぐる彼女の感性に、プッとついふきだしてしまいそうになることが、しばしばあります。そのうち4つばかり。

ひらがなを習いたての頃、ややぶきっちょさんで鉛筆を柔らかく使えず、苦戦中のひとこと。「『あ』って、むずかしいなあ。だれか『あ』をかんたんにしてくれないかなあ」

国語のテスト。かしこいネズミがゾウの背中に飛び乗って川を渡ったというお話で、ネズミが何を使ってどうした?と問われ、「こつ(をつかって)だました」。うーん、深いかも。

おねえちゃんの算数の問題に、「ゆうたくんはクリを8コもらいました。……」というくだりがあるのを見つけ、「ゆうたくんってだれだろう? あのあたらしいマンションにひっこしてきた子かなあ?」。ははは。

こちらに近寄ってきて言うには、「パパにもんだい。せかい一高い山ってなあんだ?」「エベレスト」「ブブーッ。ざんねん。正かいは『おとうさん』」。おとう山? 喜んでいいんだよな、これ……

(編集部F)

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つれづれ kawade_staff 2012-02-27T10:24:28+09:00
インフルエンザ http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2012/02/post_199.html 流行っていますね。
学級閉鎖や学校閉鎖のせいか、平日の午前中から公園で遊ぶ小学生をよく目にするようになりました。閉鎖の意味がないのでは……。

私自身は一度も学級閉鎖を体験したことがなく、強いあこがれがあります。
ぎりぎりの線まではいったんです。あとひとり休めば成立、というところまでは。
教卓で先生が生徒の人数を数えて、まさに学級閉鎖を宣言しようとしたところへ、ガラリと遅刻者が入ってきたときの脱力感と言ったら!
「もう今日休めよ。空気読めよ」と言った先生。あれが初めて「空気読め」という単語を聞いた瞬間でした。
まあ、その人は毎日遅刻してくる人だったので、私達こそ浮かれていないで勘定に入れとけよ、とあとで思いはしましたが、それくらいワクワクしていたんです。

大人になるとインフルエンザはまったくいいことがありません。
予定が狂うし苦しいし、ムダに休みも取らなきゃいけないし。
恐れてしきりと手洗いうがいを敢行しているのですが、警戒していない人たちが物の見事に感染していくので、敵の力がどんどん増大して義勇軍の闘志も風前の灯です。
みなさまも無事でこの冬を乗り切れますように。

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つれづれ kawade_staff 2012-02-21T10:45:48+09:00
ひさしぶりとあいさつ http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2012/02/post_198.html ご無沙汰しております。
なんと新年一回目の更新。大人になると時間が経つのが早い、とよく言う人がいますが、
それはだいたいにおいて怠惰の言い訳です。
自分のことなので身に染みてわかっています。

続けていたものを一度怠ると、どんどん再開のハードルが上がって行きます。
ひさしぶりなのだからそれなりのことを!など、余計なことを考えるのです。
ひんぱんに行っていた店にしばらくご無沙汰すると、道で店主に合うのも気まずくなるのとよく似ています。
うっかり顔を合わせようものなら「ひひひひさしぶりですねなんだかばたばたしていてええもう近々伺いますもちろん」と言いながら足はあとずさりしてしまう。
店主からすれば、来てくれなくなるより、たまにだって来てお金を落としてくれたほうがいいに決まっているのですけどね。
自意識は厄介、というお話でした。

さて、新年のご挨拶といえば、「あけましておめでとう」ですね。
私、この挨拶が下手なんです。
この挨拶に返す言葉の正解は、オウム返しに「あけましておめでとう」です。
しかし、これも自意識の問題かもしれませんが、つい、
「ありがとうございます」
と返して相手をきょとんとさせてしまうのです。
年明けたのは自分だけだとでも思っているのでしょうか。
今年はもっと大局を見られる人間になりたいものです。もう一ヶ月以上過ぎましたが。

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つれづれ kawade_staff 2012-02-17T17:29:59+09:00
郷田マモラ『ぼくらの裁判をはじめよう』発売中です! http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2011/12/post_196.html  裁判員裁判が導入されて、早いもので2年以上が経過しました。施行される前は、民間人が裁定に携わることに賛否両論の嵐! さまざまな意見が活溌にかわされ、連日ニュースや新聞などで報道されていたので、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?
 ところが、2009年5月21日に裁判員制度が施行され、同年8月3日に全国で初めての裁判員裁判が東京地方裁判所で行われると、それまでの議論は沈静化、今ではすっかりあたりまえのもののようになった気さえします。
 それもそのはず、裁判所のウェブサイトによると、平成22年1月からの1年間だけでも、裁判員裁判で判決を下された被告人は1506人。単純に考えれば、毎日全国のどこかで何人もの人が裁判員裁判による判決を受けていることになるわけで、それだけ私たちの身近に裁判はある、ということなのです。
 さらに、私たちが関わる可能性があるのは、裁判員裁判に限りません。裁判員が関わらない軽度な刑事裁判はもちろん、離婚や借金問題などの民事裁判だって毎日普通におこなわれているのです。誰しもが、いつ裁く側にまわっても、裁かれる側にまわっても、第三者として関わることになってもおかしくない状況、それが現代なのです。
 もし、「明日、裁判にきてください!」と言われてしまったら、あなたはどうしますか……?
 本書は、死刑囚をテーマにした『モリのアサガオ』、監察医を主人公にした『きらきらひかる』などで知られる漫画家の郷田マモラさんが、人が人を裁くということ、裁判という場、そして人間の罪や罰について、シロウトだからこそ疑問に思うことを考え抜いた一冊です。巻頭やコラムなど、郷田さん書き下ろしのミニ漫画も収録! さらに、裁判を考えやすくするために、架空の事件についての模擬裁判も再現しました。
 まさに、超実践的・裁判入門の一冊! 是非、手に取ってみて下さい!

〈目次〉
はじめに 裁判は他人事やない
第1章 裁判入門! 今日もどこかで開廷中。
第2章 もっと教えて!! 裁判員制度
第3章 そのとき、きみならどう裁く? ——模擬裁判・河出山中学傷害事件
第4章 死刑ってなに? えん罪ってなに?
おわりに

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『ぼくらの裁判をはじめよう』

(編集N山)

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お知らせ kawade_staff 2011-12-12T18:28:59+09:00
なぜいつも「最近、風邪が流行ってますよね」なのか? http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2011/12/post_197.html 私は滅多に風邪をひきません。たぶんもう、7年くらいひいていません。
よく、「バカは風邪をひかない」と言いますが、あれは「バカは風邪に気付かない」ということなんです。だから、私も実は、風邪をひいていたのかもしれないし、今もひいているのかもしれません。

逆も然り。バカではない人は、「風邪をひいていないのに、これは風邪ではないかと勘付く能力が高すぎる」可能性があります。

「いやー、最近、風邪が流行ってますよね」という、お決まりの挨拶がありますね。どうも好きになれません。「流行ってますよね」という挨拶があるならば、「最近、めっきり風邪が流行りませんね」という挨拶もあるべきですが、私は一度もその挨拶を聞いたことがありません。ジッと、風邪が流行っていないタイミングを見計らっているのですが、なかなか「最近、風邪が流行ってますよね」という声はやみません。

要するに、風邪は常に流行っているのです。そして、流行った風邪を前にして、皆さん、「困っちゃうよね、風邪が流行っちゃって」と言い続けます。お分かりですね。なぜ風邪が流行るか、それは「これって風邪かも」という感知する能力が高すぎるからです。

就寝前に熱を計ると38度5分、だったとします。でもその時に、「あれ、お昼に熱いラーメンを食べたからかな」と思えばいい。そうやって、あなた自身が風邪のハードルを下げれば、風邪の流行りなんて、おさえることが出来ると思うのです。


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(編集部 T田)

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世界の見方 kawade_staff 2011-12-08T12:07:44+09:00
サンタのルール。 http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2011/12/post_193.html ※小さなお子さんとお読みのお父さん、お母さんはご注意ください。
いないと思うけど。

***

12月になりました。街がクリスマス色ですね。

さて、もう10年くらい前だと思うのですが、日曜日の夕方に放送している某国民的アニメ「○ザ○さん」で、サンタさんにまつわるエピソードで抗議が寄せられたという都市伝説を知っていますか。
いや本当にあった話なのですが…ご存じない方のためにざっくり説明しましょう。

タラちゃんは、ロボットが欲しいと書いた絵手紙(まだ文字が書けない設定なので)を、誰にも見せずにポストに投函しちゃいます。サザエさんとマスオさんはその手紙を見て、プレゼントを決める予定だったのに、大誤算!
聞き出そうとしても、「秘密ですぅ うふふぅ」と言って教えてくれない。サザエさんとマスオさんがあれこれ手を尽くした結果、「おもちゃの車」と判断。おもちゃを買ったマスオさんが、勝手口から家に入っておもちゃを隠し、夜を待ちます。サンタさんを待つと言ってなかなか寝ないタラちゃん(定番!)。
フネさんの子守歌でようやく寝たタラちゃんの枕元にプレゼントを置きます。翌朝タラちゃんは「ロボットを頼んだのに、どうして車ですかぁ?」と不思議顔。お友だちに話したら、お友だちは「ボクは車を頼んだのにロボットだった!」→「サンタさんが間違えちゃったんですねぇ~」と解釈して、おもちゃを交換する…というエピソードです。

ほほえましいお話ですよね…?
私、抗議内容が全く思いつかなかったのですが、世のお父さんお母さんにしたら、かなり致命的な内容だったわけです。このエピソードのNG、気付きますか?
何度も言いますけど、私はもう子ども心はないし、親でもないので親心もわからず、全く気付きませんでした。

親=サンタクロース という図式をあからさまに放送してしまっている! 子どもの夢を壊すな!という苦情が寄せられたらしいです。

それを聞いて、はじめて「ハッ!」って思いましたよ、私…。
えーーー…!そうか…。
今でもチビッ子はやっぱりサンタさんって信じてるんですか?
いったいいつまで?

私は子どもの頃、親が枕元にプレゼントを置いているのは知っているのに、親が翌朝「えーサンタさん来たの。よかったね」的になっているのが、とても気恥ずかしかった覚えがあります。

ちなみに、これはサンタ自体を信じていなかったわけではなく、サンタはいるけれど、外国(北のほうの国)の人だから、「日本には来ない」、ましてや「日本語の本とか、日本のキャラクターのおもちゃとか入手するわけがない」と信じていたのです(歪んでます?)。
外国っぽいメーカーの木のおもちゃとか、洋書の絵本とかが枕元に置いてあったら、「今年は日本まで来たのか!」と信じたと思います。

ちなみに、友だちに話を聞くと…
「両親からはイブの夜にプレゼントをもらい、朝起きると枕元にサンタさんからのプレゼントがあった」という恵まれすぎている子。
「サンタさんはウチには来ないから、そのかわり、これは父さん母さんからのプレゼントだ」とはっきり言われて、両親にプレゼントを手渡しされる子。
「弟にサンタは親だと言って、弟が泣き、親に怒られた」という漫画みたいなベーシックなエピソードを持っている子。
「10歳になったらサンタは来なくなる」とサンタ的ルールを親に言われて、その日が近付くのを恐れている子。

…などなど、各家庭のサンタ事情がありました。
みなさんのおうちはどんなサンタルールですか?

いつからサンタは来なくなるんでしょうか?
引き際って難しそうですけど…。

(編集部AH)

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つれづれ kawade_staff 2011-12-06T00:18:23+09:00
苦しみを救う言葉 http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2011/11/post_195.html 今回は宣伝をさせてください。あの震災で町が壊滅させられた南三陸に須藤洋平さんという若い詩人がいます。トゥレット症候群という病に苦しみながら、生きることことへの問いを詩にしてきました。その最初の詩集「みちのく鉄砲店」は中原中也賞を受賞して、読者に衝撃を与えました。これを書いている私もその一人でした。そしてただでさえ人に言えないような苦しみを背負った詩人の町に津波は容赦なく襲いかかったのです。須藤さんは幸運にもその日、仙台にいましたし、自宅も高台にあったため、本人と家族は無事でしたが、多くの親しい人々が生命を奪われました。電気もとおらない生活を送りながら、須藤さんが書き始めた詩は最初の詩集以上にするどい感動を読むものに与えずにおかないはずです。「あなたが最期の最期まで生きようと/むきだしで立ち向かったから、/こんな世でも胸をはっていえる/人を苦しみから救いたいと。」苦しみとはなにか、そしてそれへの救いはどこにあるのかと私たちはいつも問います。それにたいして、少なくとも言葉は、時にとてつもない救いの力をもっているのだとこの詩集は教えてくれるように思うのです。(H)
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309020778

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読書案内 kawade_staff 2011-11-28T16:47:52+09:00
読書は好きですか? http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2011/11/post_194.html  中高生のみなさん、読書をしていますか?
 今は朝読とかあるから、いっときよりも読書が身近なものかもしれませんね。

 うんと前のことですが、私が10代の頃の読書は、今思い返しても、本当に楽しいものでした。
 なんといっても今のように(仕事柄でしょうけど)、「評判がいいから」とか、「この著者の本は読んでおいたほうがいい」とか、「すごく売れているようだ」といった邪念がまったくなかったのですから。
 心の赴くままに、その本に価値があるかどうかなど関係なく読みたい本を手にとり、時代も国境もやすやすと越えて、読んでいる間じゅうその本の中に没頭していたのでした。
 私の場合、数学や物理の授業時間がほぼ読書時間になっていて、先生に見つかって厭味を言わることもしばしば。でも、そんなことはへっちゃらでした。

 今、果たしてあの頃と較べて、どれだけ読書を楽しんでいるか自分に問いかけて、同じだけ楽しいと答えるだけの自信がありません。
 仕事のために読んでおかねばならないという本があるし、数冊並行して読んでいることも多くて、すばらしい作品に出会っても、「すごい!」と思うのは読んだ直後からせいぜい数日位であって、その後何ヶ月も“うっとり”を引きずることなく次の本にいってしまうからです。
 だからこそ、何の混じりけのない読書を10代のみなさんには満喫していただきたいと思うのです。

 そういえば、中学時代に読んでよく理解できずに終わった本が、後になって再読して驚くほど面白く、印象が全く違く感じられるものがある一方、大人になってから出会って、「ああ、10代に読んでおきたかったなあ」と思う本があります。
 たとえば、『悪童日記』(アゴタ・クリストフ)と、『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス)。
 どちらも大人が読んでももちろん衝撃を受ける作品ですが、本当に全身で読むことができる2作。
 10代で出会っていたらよりいい、お薦めの2冊です。

(編集部R・T)


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読書案内 kawade_staff 2011-11-24T11:19:57+09:00
ハマりやすい http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2011/11/post_192.html 突然ですが、最近、ハマっているマンガがあります。

『ZUCCA×ZUCA』

簡単にいうとヅカヲタ(タカラヅカにハマった女性たちの哀しくも楽しい日常を描いたギャグマンガ。
私自身は特にタカラヅカ好きというわけではないのですが、
なにかにハマったことのある人間のツボを「あるある!」という力で突いてきて、ヤラレタ! とハマってしまったのです。

中高生の頃、私はサッカーにドハマリしていました。
最初は贔屓の選手を応援していればすむ話だったのですが、見ている時間が長くなれば自然と他の選手も目に入り、他のチームも目に入り、
背番号とチームを覚えているのはもちろんのこと、
「あ、あの後ろ姿は××選手」から、
「あのソックスの下がり方は●●選手」とか
「あらやっぱり×△選手は●×さんより背が低いわ。公式発表サバ読んじゃってv」とか
「あの選手とバスで並んで座ってるから顔は見えないけど△×選手だ」
などと、嫌だわ、書いていて、自分でもストーカーとしか思えなくなってきた、という青春を送っておりました。
ので、
「タカラジェンヌの母校(音楽学校入学前の)を訪ねて写真を撮る」とか
「私が死んだらパソコンは叩き壊してほしい 中を見ずに!」とかいう感情、死ぬほど分かって見過ごせないのです。
「贔屓の選手の母校を高校サッカーで応援する(もうその選手はいないのに)」とか
「身のこなしがきれいなイケメン少年がいたら『ユースに入れ!!!』と念を送る」とか
「好きな選手の高校時代の写真を入手」(一応断っておきますが隠し撮り等法にふれるものではないです)とか
していましたもの。情報化社会怖い! すみません!
…‥ま、私は当時から、死んだらパソコンを引き取ってくれる友人を用意していますけどね。
先に死なれちゃ困るから、複数ね。


とはいえ、なにかに夢中になっていない学生時代を考えると、ひたすらぼーっとする以外なかっただろうと思えば(勉強しろよ)、
好きなことなら夢中になって、日本中どこでもひとりで出かける行動力も瞬発力もついたのでよかったと自己完結しています。
情報の集め方もカンが働くようになるし、情報処理方面も自然と知識がつきました。
いいよなあ、人によっては、これが「部活に熱中! バスケに青春かけました!」なんでしょ? 健全ーと
羨む気持ちもなきにしもあらず、ですが。


残念ながら、一度そういうオタク体質になってしまうと
「一度好きになったものを嫌いになれない」ので、
上記の所業をいまだに条件反射で続けてしまうという残念な副作用は残りますけどね。
おかげで友人たちには「この人に少年を近づけてはいけない」(選手になるよう呪いをかけられる)と認識されています。

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みんな14歳だった kawade_staff 2011-11-22T10:12:08+09:00
「気合い」愛憎 http://mag.kawade.co.jp/yowatari14/2011/11/post_191.html かれこれ20年前、中学高校時代、野球部だったのですが、近頃の生徒さんたちはどんなふうに練習してるんですかね?

あの頃はまだまだ精神主義。気合い入れればなんとかなる的なノリでやってました。さすがに水飲むなと言われたり、ケツバットされたりということはなかったですが、私語をしてたらグラウンドを走らされたり、もう足が動かないのにノックの雨が止まなかったり……

あれは間違っていたなあ、と今になって思います。

「気合い」って、ともすると、体をガチガチにさせてしまうんですよね。「全力でプレーしろ」とよく言いますが、野球に限らずどんなスポーツでも大切なのはむしろ「いかに力を抜くか」でしょう。そのほうが動きも軽快になります。全身に気合い入れて部活やってると、いかにも青春している気になって気持ちがよいのですが、そのために上達しきれない選手がゴマンといるのではないかと思うのです。

かく言う私がそうだったという自覚があるのですが、それが証拠に、社会人になってからの草野球が楽しくて仕方ない。適度に力を抜いていられるので、逆にプレーが良くなったりして。ゴロを上手く取るコツはキャッチする直前にスッと力を抜くことですが、センスに恵まれていない凡人が気合いを入れてしまうとこれが出来ない。その余分な気合いを抜くことが、その人の野球を豊かなものにするかもしれません。

そんなふうに思っていた矢先、元巨人/パイレーツの桑田真澄さんの発言にふれて、漠然と感じていたことをズバリ言い当てられたような気がして、目から鱗がボロボロ落ちたものです。

桑田さんは、ひとの体力と集中力には限界があるので、いくら野球が好きでも長時間練習はムダとして、PL高校1年(!)のときに「全体練習は3時間にしましょう」と監督に提案したというのです(朝日新聞2010年7月20日付)。

圧巻は次の考え方。「練習量を増やし過ぎると、動作は徐々にゆっくりになってしまいます。その動きを脳が覚え、身体に染みついてしまう」(同前)。ああ、もしかしたら俺は下手になるためにあんなに練習していたのか……

とはいえ、大人になると、気合いで乗り切らねばならない仕事に多々出会うことも事実でして、あの頃の経験が生きてこないとも言えないのが、人生の趣深いところでございます。

(編集部F)

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生きる kawade_staff 2011-11-16T20:00:53+09:00