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      <title>4444 古川日出男</title>
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      <description>ついに『４４４４』サイト、最後の近況です。総まとめの報告でいきます。まず、このサイトは2010年８月いっぱいで閉じます。本当にどうもありがとうございました。で、●続いて秋の新刊、その他について。９月27日に角川書店より単行本『ノン＋フィクション』が刊行されます。かなり刺激的な作品集です。ひそかに仕込んでいました。10月10日に発売される雑誌「Coyote」No.45 では、大量に原稿を発表します。簡潔にまとめるとメキシコ旅行記の一挙掲載ですが、この号はガルシア＝マルケスと僕に焦点を当てられるような特集となる予定です。本当に不遜な感じで身震いしますが、本当にうれしいです。近々掲載予定原稿をブラッシュアップします。あと、僕が撮影した写真もいろいろと載るかもしれません。さらに10月末にはあの『ゴッドスター』が新潮文庫からリリースされます。装画、解説とも「この人しかいない」との人選で依頼しました。で、●原稿以外のことだと、まず、閉店間近の“渋谷系”の聖地（このフレーズは洒落です！）、HMV 渋谷店の３階で、the coffee group のアートワーク展示が開催されています。近藤恵介＋古川の合作５点が、本当にいい形で飾らせていただけています。もちろん無料で観られますので、閉店の８月22日までに、未見の方はぜひどうぞ。こうした一種の“課外活動”と見えるような表現も含めて、いまの自分＝作家・古川日出男の立ち位置をしっかり語ったロング・インタビューが、８月25日に発売される雑誌「SWITCH」25周年記念別冊 Vol.1 に掲載されます。で、●さらに語り系の仕事だと、９月29日に文藝春秋から発売される村上春樹さんのインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』に、僕が聞き手を務めさせてもらった「モンキービジネス」のあのロング・ロング・インタビューが収められます。で、●秋にはこうしたもろもろが刊行されたり発表されたりするのですが、僕自身は基本、執筆に没頭モードです。かつ、いちばん重要な業務連絡。今年の11月はまるごと執筆のために引きこもります。30日間、いっさい連絡は受け付けません。もちろんメールも受信拒否します。関係者の方々はなにとぞ宜しくお願いします。そう、僕は書きます。来年、再来年のために。そして、人間として／作家としてのふたつの寿命を延ばすために。ただひと言、「頑張ります！」。では。</description>
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      <copyright>Copyright 2010</copyright>
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         <title>＜1＞　前もって用意した構成はまったくなかった</title>
         <description><![CDATA[<span>──  『４４４４』は古川さんにとって初めての試みであるweb連載の作品です。毎週発表というのは非常に書く体力のいるペースだと思いますが、古川さんの発案ですか？</span>
 
　本とちがってwebはいつでもアップできます。最初は編集者から「毎日更新しましょう」と言われたんですけど、「毎日書けるわけないでしょ」って即却下しました（笑）。でも隔週では間が開きすぎていておもしろくない。人間が可能なスケールとして毎週、そして読み切りの小説を発表していくことは、まだ誰もやってないことなんじゃないかなと思って。
　ちょうど今月44歳になるんですけど、44歳の誕生日に44本の短編がおさめられた本を出そうと思ったんです。そこで誕生日から逆算してスタートしました。
 
<span>── 書き終えた手応えはいかがですか？</span>
 
　毎回読者を裏切ってよく最終回まできたものだな、と。第一話をアップした直後は「とっても素敵な姉弟の話ですね」なんて言われたりしてました（笑）。
 
<span>── 私も最初に読んだときは学校の話だとは思いませんでした。</span>
 
　でもよく見ると最初から仕組まれてるでしょう。伏線は張り続けてるから。本になると、表紙を見て誰でも学校を連想できるようにはなりましたね。
 
<span>── 全体像がなかなか見えにくい作品ですが、見通し図や構成をつくってから書きはじめたんですか？</span>
 
　いや、全然ない。登場人物表にあたるクラスの名簿すらつくりませんでした。俺は基本的にどの小説も構成を用意しないんです。後になって「生年月日がずれてます」って指摘されたこともあるくらい。
　発表は毎週だったけど、二、三本ずつ半月に一回のペースで入稿していました。前日までに次のタイトルを考えて、タイトルがあるということは話が存在してるということだから、起きたらそれを書く。書き上げて二分後には入稿していましたね。雑誌に掲載するのとちがって、webはゲラがない。だから読み直すことがない。そこはまったく形式が違いました。作り方が違う以上、それに従ったほうがオリジナルなものができるはずなんです。そこは信用していましたね。
 
<span>── 書く速度は変わらなかったですか？</span>
 
　速かったですね、固有の文体がなかったから。長いものだと、最初に書いた文体に寄り添い続けるということにエネルギーが要るんです。でも今回はすべて文体を変えていいと決めてたから。
 
<span>── 古川さんの小説はルビや文字組みに意識的だと思うのですが、webに掲載されるにあたって、ヨコ組みで読まれることが前提となる等、条件が変わったと思います。今回、意識されていた点は？</span>
 
　とにかく最初に、ルビも傍点も書体の変化も使わないって決めました。使わないと決めるということは、逆にそれを使うってことと同じなんです。音と意味をずらして言葉に二重性をあたえることと、手を加えないというのは同じことで、言葉が本来もっているものから拾ってくるしかない。『４４４４』はそこに向かいました。
 
<span>── 制限だとは感じませんでしたか？</span>
 
　制限というのはクリエイティビティに直結しています。だからヨコ組みも全然気になりませんでした。ルビや傍点にこだわるとファイル形式に限定されるでしょう。そうすると端末がちがうとうまく見えないとか、ソフトウェアが必要だとかが起きてくる。そういうことはしたくなくて、僕は素のテキストのまま出したかったんです。
　一番大事だったのは、webでやる以上コピーフリー（編集部注：<a href="http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/2.1/jp/" target="_blank">クリエイティブ・コモンズ・ライセンス</a>）にすること。「テキストのコピーガードはどうしますか？」と聞かれて「そんなの、全部コピーできるようにする」って言ったんです。
 
<span>── なぜコピーフリーにこだわったんでしょうか？</span>
 
　インターネット上のものに課金するのは間違ってる。俺たちは所有することに対して金を払ってると思うのですが、データ化するということには所有という概念が通用しないのではないでしょうか。全員がもっているということは個人がもっていないということ。とにかく誰もがもてるように無線で繋がっているところに、壁をつくるようにして「あなたは所有してるから課金しますよ」っていうのは、お釈迦様の掌で強引にバリアをつくっているようなものじゃないかと思うんです。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 09 Jul 2010 09:39:07 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>＜2＞　作家の言葉ではなく、書かれた本に正解がある</title>
         <description><![CDATA[<span>──  意外なのですが、web上に掲載されることをとりわけ意識して書かれた作品というわけではないのですね。</span>
 
　とりわけ意識してはないですね。ただ、どの作品も、どういう媒体でどういう編集者でどういう版元なのかというのは大きく関わってきます。そこからは逃れられないし、逃れる気もない。だから、今回は河出書房新社という出版社で、原稿を渡す相手がこの編集者で、web連載ということは、作品の発生における一番深いところを1ミリ上くらいのところで大きく影響しているはずです。
 
<span>──  <a href="http://www.shinchosha.co.jp/book/130531/" target="_blank">『LOVE』</a>と<a href="http://www.shinchosha.co.jp/book/306072/" target="_blank">『MUSIC』</a>、<a href="http://www.shinchosha.co.jp/book/306071/" target="_blank">『ゴッドスター』</a>、<a href="http://www.shinchosha.co.jp/shincho/backnumber/20100607/" target="_blank">『冬』</a>というふうに、ある傾向に分けられる気がします。『４４４４』というタイトルの反復する感じは <a href="http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309410302" target="_blank">『ハル、ハル、ハル』』</a>に連なっていますね。</span>
 
　後で気づいたとき、困ったんですよね。（河出書房新社から）文庫化された<a href="http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309409269" target="_blank">『ボディ・アンド・ソウル』</a>も含めて、銃弾を撃ってるみたいなタイトルしか河出には集まらない（笑）。
 
<span>──  確信犯なのかと思ってました。</span>
 
　無意識に選択しています。無意識に選択してるということに自分で気づいてるから、どこで誰とどうやるかということを気にしてますね。会う人によって自分って変わるでしょう？　それを忠実に反映させて作品は生まれてくるんだと思う。僕は無意識過剰だから。
 
<span>──  それにしてはグラデーションがれっきとして現れていますね。</span>
 
　やっぱり本能のほうが正しいところを撃ち抜くんです。だから考えてない方が正解になる。たいてい書かれた本の方が正解で、作家としてインタビューを受けてる僕の方にバツが入るんですよね。ときどきハッと気づきます、「俺の言ってることは間違ってる気がする」って。
 
<span>──  ではこのインタビューも......</span>
 
　僕はインタビューごとにちがうことを答えてるんです。それは嘘をついているわけではなくて、インタビュアーが求めてることを答えてるから。人の数だけ答えがある。読むということも同じでしょう。『４４４４』を4444人が読んだとしたら4444通りの感想がある。ひとつの作品に対してひとつの読み方っていう幻想は崩したいですね。
 
<span>──  のちほど詳しくうかがいたいのですが、それは古川さんの作品における記憶の扱われ方と同様ですね。いかに集合的に見える記憶でも、人の数だけ記憶のあり方は異なり、決して一致することはない。</span>
 
　ええ。ただ社会的にはそれは不自然だとされるんだろうとも思います。『MUSIC』で1日3本のインタビューを受けたときはクラクラしました。これほど自分のパーソナリティの輪郭が狂いまくるともたないと思いました。
 
<span>──  ええ、インタビュアーも感動すると思いますよ。他で語っていないことを語らせたいわけですから。でも、主体というもののあり方に関わってきますよね。通常、統一された記憶に同定されることで社会的な主体として信頼されると思うのですが。</span>
 
　信頼ということでいうと、相手によって語ることがずれるというのは、相手がいないと成立しないことを毎回生むということなんですよ。それは、相手を必要としているということだし、相手もこちらを必要としているとも言える。つまり、ひとりひとりと契約する行為なんです。このことはあまり考えられていないですよね。もし僕が必要じゃないんだったら、僕もあなたも要らないっていうスタンス。僕はそれをラディカルなまでに徹底的にやってるんだと思います、小説も生き方も。
 
<span>──  『４４４４』の大切なキーワードである「1＋1＝1」がまさに思い出されます。最初に目にしたときは「私たちはひとつの世界に生き、その調和のもとに生きているのだ」というような解釈を導きやすい数式だと思いました。けれどおそらくそうではない。安東先生のセリフで「おまえたち一人ひとりが、つまり、＝１だ。（中略）おまえたちは無限に、1だ」とあります。このセリフの有無によって解釈がまったく変わってきます。</span>
 
　全然ニュアンスがちがいますよね。ニュアンスというか、本質がちがいますね。
　数のことを考えていくと、小説を書いているはずなのにどうしても横道に逸れることがあるんです。
 
<span>──  古川さんのどの作品からも数字への偏愛が感じられます。数字にはフェティシズム的な執着がありますか？</span>
 
　言葉と同じなんです。フェチではないと思いますよ。数字は言葉と一緒だから、言葉と同じくらいの偏愛をもっています。でも数字の方が要素が少ない分、強い。日本語はアルファベットとちがって要素が異様に多いでしょう。おそらく世界で一番要素が多い言語である日本語と、0から9までしかないっていう数字のミニマムさ。その両方でつくり上げるものは、まるまる宇宙そのものなのではないかと。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">interview</category>
        
        
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         <pubDate>Fri, 09 Jul 2010 09:38:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>＜3＞　読むたびにかたちを変える小説</title>
         <description><![CDATA[<span>──  今回のタイトルに並ぶ「4」は日本語文化圏では死を連想させる不吉な数字です。</span>
 
　そこは恐ろしいほど何も考えていませんでした。途中で指摘されて「ああ、なるほど」と思いましたね。
 
<span>──  読み進めるにしたがって死の気配が濃厚に漂ってきます。しだいに浮かび上がってくる学校も廃墟感が強かったです。</span>
 
　ええ、ノーバディな感じは僕の頭の中にもずっとありました。
 
<span>──  そこに今はなき4年4組の学級新聞「４４４４」が貼られているのが目に浮かぶ。すると、これはまるで恐怖小説として描かれていない『漂流教室』と『恐怖新聞』だと思ったんです（笑）［担当編集注：偶然にも、『４４４４』のカバー写真の撮影場所はドラマの『漂流教室』の撮影場所と同じでした］</span>
 
　そうですね。恐怖の土台には対象物が必要とされます。よくある小説のパターンとして、読者を怖がらせるために先に平和を描いておくとか、最後に救いをあたえるために登場人物に不幸をあたえておくみたいなことがあるでしょう。僕はその発想が本当に嫌いで、腹の底から嫌いで。そういう作家の操作は殴りかかりたくなる。恐怖はただ恐怖としてある。そして、恐怖は見えないものだと思うんです。
 
<span>──  死の取り扱いに顕著ですね。物語に落差をあたえるために登場人物は死んでいるわけではない。ノイズやゴーストと指し示すしかないような死の気配が『４４４４』には充満し、動いています。</span>
 
　僕には死んだ友だちもいっぱいいるし、なかには小さいときに死んだ友だちもいる。最近、その親御さんが亡くなったと聞いて、小さいときに死んだ同級生を数年ぶりに思い出したりしたんです。その同級生は空白ではなくて、存在として、異物として、僕の中に入ってきた。死によって欠けたんじゃなくて、逆に入られてるみたいな感覚があって、それは「どんどんちがう俺になっていく」みたいなところにまでもっていかれた。その感覚が『４４４４』の随所に引き出されているでしょうね。リアルなだけなんです。44週、リアルタイムでリアルに書いていると、全員の記憶がずれているっていうことを書かざるをえなかった。
 
<span>──  その「ずれ」の象徴として『４４４４』では <a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/1981%E5%B9%B4" target="_blank">1981年</a>がエポックの年ですが、どうして1981年なんでしょう？</span>
 
　わからないですね。84年にすると<a href="http://1q84.shinchosha.co.jp/">『1Q84』</a>になっちゃうから（笑）。大事なのは、1981年にあの教室は誕生したということ。それはもう書かれているから。それ以前には歴史はないんです、おそらくね。
 
<span>──  81年当時、古川さんは何をしていましたか？</span>
 
　ああ、演劇を始めた年ですね。『４４４４』にはひとつ、平然とエッセイが入っています。演劇論を語っている章ですが、「アトム・ラブズ・ウラン」というのは、実際に僕がやろうとして直前でだめになった劇団名なんです。
 
<span>──  1980年ではなく1981年なのだと作中で強調されています。本作に限らずですが、同じように20世紀と21世紀はちがうと繰り返し強調されますよね。</span>
 
　2000年と2001年は意味がまったくちがうでしょう？　それはみんな共有している感覚だと思うけど、でも、どこまでが20世紀でどこからが21世紀なのか、ミレニアムとはどこなのか。実はみんな把握が異なるみたいに、それを通過することによって実は決定的に世界が半分ずつずれてしまうような、そういった時間の断面を生じさせそうなものが様々にあるんだということを書きたい。ある登場人物が「国境と区境は同じだ」と言うけど、それに近いですね。
　あと、日本の学年の制度っておかしくて、たとえば1980年生まれの人間だけが集まる教室ってないんですよね。1月から3月生まれと、4月から12月生まれの、ふたつの生年が混在する。実際は4月1日生まれが前年度の学年に組み込まれている。そういうずれが気になるんです。
 
<span>──  何度か読み返したんですが、一回ごとに時間の流れや空間の造形の組まれ方が歪んでいくのを感じました。『４４４４』は読むたびにかたちを変える小説です。</span>
 
　「時間はずれる」ということを特定するとおそらく不定形の本になる。だから、読めば読むほどちがう本になるんでしょうね。Webにあったから不定形に見えるんじゃなくて、本にまとめてもなおさら不定形みたいな、そこにいきたかった。
 
<span>──  webで連載を追っていたときは、一章ごとが漂流してネット上に無限増殖していくような、全体像が見えてこない不安感がありました。今回、本というまとまったかたちで読み直してみると、それまで繋がっていなかった細部が実は響き合っているのがわかったのですが、44の章が遍在して、ずれていて、やはりまとまらない。全体の不定形さにより直面もしました。</span>
 
　Webでは四つの窓という形式で載せていました。あれは僕のアイデアだったのですが、まず最新のものが読めて、そこから前回のものに遡って読んでいく。逆回転してしか読めないんです。本のページのあり方と逆で、まったく逆にしか読めない。
　それに、44章を組み替えれば何種類もの本ができると思うんです。『４４４４』はぎりぎり著者名を「古川日出男」とつけられるように全体をコンストラクションしていきましたが、ちがう配列になったらまったく別の小説になる潜在力があると思います。そういう意味では、今までなかった作品にはなったのかな。]]></description>
         <link>http://mag.kawade.co.jp/4444/2010/07/3.html</link>
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         <pubDate>Fri, 09 Jul 2010 09:37:54 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>＜4＞　小説の中でも倫理的でありたい</title>
         <description><![CDATA[<span>──  学校という舞台は、いつ発想されたものなんでしょうか？</span>
 
　タイトルが先にありました。まず、ひとつひとつの章を短編として独立させたいと思ったのですが、長編として読んだときに決して歪みを生じさせないためには、「記憶はずれる」という前提をもつ舞台装置が必要でした。たとえば学級のようなある集団があって、全員それぞれの記憶はちがうだろうという前提でこの作品は進んだんです。僕自身、小学校の同級生の名前はほとんど思い出せません。だけど皆がそこにいたのは事実で、今もそれぞれの記憶がある。その記憶を大人になった同級生たちが語るとすると、それぞれが自分の語ることが真実だと思っているんだけど、しかし、そもそも記憶は共有されない。共有されているようでありながら、実は共有されていないということを『４４４４』で書きたかったんです。
 
<span>──  本文中に出てきますね、「記憶はずれるよ」。古川さんの作品はどれも記憶がテーマにありますね。</span>
 
　そうですね。真実性というものに対する僕自身の考え方が、どうも人とちがうらしいということに、生きていると始終気づいて頭をぶつけてしまう。小説を書いていても校閲の人から「資料にはこう書いてあります」と正されてぶつかっちゃうんだけど、でも僕にしてみれば「それは資料を書いた人の記憶でしょ。俺の方がもっとわかってる」となる。決して正しくない記憶だとしても、そこに真実はあるんです。
　歴史はある人の恣意的な選択性によってしか成り立っていません。その認識を共有できていないことに僕はびっくりするんです。そこを崩さないといけない。崩すということは世界の前提にたった一人で戦わなきゃいけないということだから、その覚悟でしょうか。たぶん死ぬまで言わなきゃいけないんだろうと思ってます。
 
<span>──  タイトルが先に浮かんだということですが、「４４４４」は学級新聞のタイトルというのも最初からイメージされていたんですか？</span>
 
　いや、途中で思いつきました。ストーリーが学級新聞のタイトルであるという意味を奪還していったんですね。44の章はそれぞれが「自分がこの本の主役だ」と思ってるはずだから、それぞれの奪還力が強い。
 
<span>──  タイトルが出てきた時点でイメージされていたものは？</span>
 
　ストーリー的なイメージはまったくありませんでした。やりたかったのは二点。<a href="http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-746233-3&mode=1" target="_blank">『gift』</a>を今書くとどうなるのか。もうひとつは<a href="http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2763389" target="_blank">『ルート３５０』</a>という短編集のなかに「物語卵」という話があるんだけど、それはいろんな語り手が喋っているように見えて、実はひとりの人間の頭の中で起きてることなんです。つまり多重人格者とカウンセラーの話ですが、それを読み解けた人は僕の知るかぎりでは今まで誰もいない。そこで描かれた、無限に出てくる話どうしがネットワークしていくということ。それがひとりの頭の中ではなく、いくつものところで起きるとどうなるのか。それをやってみたかった。
 
<span>──  ある女性が「同心円の中心（人物）」を直観する場面があります。誰を、あるいは何を直観したのか、読み方は様々にできると思います。集合的な記憶が同心円のようなものを描くとすると、それらの決して一致しない記憶群に、果たして本当に中心はあるのか。中心が求められないのが記憶なのだというふうにも読めます。</span>
 
　学校を書くということは、同心円の中心をどこにどう定めていいのかわからないということなんです。俺はそこに何度も立ち返ってた気がします。結局、主役は教室なんです。
　小学校の頃のことはあまり覚えてないですが、たったひとりだけよく覚えてる女の子がいて、その子のことはすごく嫌な感触とともに思い出すんです。こっちは強く覚えてるけど、あっちがまったく思い出さない可能性が95％くらいあるんですよね。あっちをこっちに存在させるということ。それは何なんだろうって思うんです。亡くなった人たちにも言えることでもある。
 
<span>──  明示は避けられていますが、日高くんはいじめに遭い、一種の死者として登場していますよね。いじめを扱う動機になったものは何でしょうか？</span>
 
　誰かが死んでいる、そして机に花があるというイメージが最初からありました。机が空白になるのではなく、机に何かが置かれる。恐ろしくありませんか？　机は中に物を入れたり横にかけたりするものでしょう。だけど上に物が置かれる。しかも、亡くなった人の机の上に花という生き物が置かれる。そのイメージが刷り込まれたスチールのようにずっと消えずにありました。それが何かを生んだんだと思います。
 
<span>──  いじめという行為やいじめがある状態の恐怖や残酷さというよりも、何かが失われていった経過や動機が振り返られるかたちで恐ろしさのようなものを生んでいると感じました。これまでいじめが扱われた小説にはなかった感触です。</span>
 
　でも僕は一貫してそうですよ。幼児虐待のことをずっと書いていますが、それについてほとんど描写しない。描写するのだったら、その子を自立させるとか周囲を切り捨てさせるとか、とにかくそうしないと人物に対して救済があたえられないんです。描写してしまうと登場人物に憎しみをおぼえさせて復讐に向かわせてしまう。そのために人生を犠牲にさせてしまう。僕はそういう物語に一切興味がもてない。なぜなら、現実に有効じゃないから。本を読んでもらう以上、それはお金を払ってもいいし払わなくてもいい、盗んでもいいのですが、人生に対して有効じゃないのなら本なんて要りません。そのときにいわゆるリアリズムで書くことに意味があるのかわからない。もうひとつ、そのことにセンシティブすぎて、書くことで人物をいじめたり虐待する勇気が僕にはまったくありません。それは作家としては逃げているかもしれませんが、人間としては誠実だと思います。
 
<span>──  小説内でたくさん人が殺されているなかで、とても倫理的な態度だと思います。</span>
 
　まさに倫理ですね。倫理をもっていいのかどうかはわからないけれども、作家としてどちらかを選ぶなら、僕は倫理をもつ方を選ぶ。
 
<span>──  小説において、大人を殺すことと子どもを殺すことには、また少し違う重さがあると思うんですが。</span>
 
　ええ、違いますね。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 09 Jul 2010 09:37:32 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>＜5＞　すべての余分なものを掬い上げたい</title>
         <description><![CDATA[<span>──  古川さんにとって子どもはどういう存在ですか。</span>
 
　子どもには子どもの条件がある。収入源がないから自分で生きていけない。名前すら自分でつけられないし、生まれた瞬間に放置されたらそのまま死ぬわけです。生まれてすぐは立つことも歩くこともできない。いろんな子どもが嬰児のまま死んでいるわけですよね。そういう子どもの条件を受け入れた上で、どうやって子どもを日本という社会性から自立させられるか。おそらくデビューからずっと、僕はずっと試行錯誤しています。自分でもなぜだかわからない。それがわかってしまったら小説を書けなくなる気がしますよ。
 
<span>──  子どもを書きつづけてきたなかで変化はありますか？</span>
 
　書くごとにフェイズが変わってきています。自分は自分の幼年期からどんどん離れてきてるわけだから、離れることによってしか見つけられない救済を書こうと思っています。
 
<span>──  単純に言ってしまえば、生き残った者だけで構成されているのがこの世界です。しかし果たして本当にそうなのか？　古川さんはそこを問うているのではありませんか？</span>
 
　そこはすごく大きいです。統合失調症の人がひとりで喋り続けていたりするでしょう。その人にとって語りかけている相手は本当にいないのか。いや、いるだろうと僕は思う。なぜ「いる」ということが前提にならないのか。
 
<span>──  見えないもの、なかでも死者を世界の非構成員として遺棄してしまってもいいのか。</span>
 
　だめですよね。それらは何かを経て自然に見えなくなっていくんだけど、その見えなくなっていく過程を見せるべきなんです。田舎に荒れたお墓があるとします。誰も手入れせず、表面の文字も消えて読めない。ほんの百年で見えなくなってしまうんです。そうやってすべては失われていくんだけど、逆にいえば、失われるまでにそこまでの時間がかかっているともいえる。消えることを見せないシステムが僕は怖い。
　余分なものは要らないってよく言われますよね。そんなこと言ったら「僕なんて世界に要らないしな」って自問自答が起きるんです。「余分なものを引き受けないんだったら、やめれば？」っていう声が聞こえるし、やめない以上はすべての余分なものを掬い上げたいと思っています。
 
<span>──  「空気語」や「お帰り、そしてこれが、オンエアだ」というたがいに響き合う言葉が登場します。見えないものを可視化する発明のような言葉だと感じました。</span>
 
　結局、インビジブルなものに還元されるんです。『４４４４』においてはそれは教室の中に流れている空気の揺らぎでしかない。目に見えない、声に還元されるんです。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 09 Jul 2010 09:37:06 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>＜6＞　僕にとっての「小説」は響かせる声である。</title>
         <description><![CDATA[<span>──  古川さんは無意識なのかもしれませんが、『４４４４』はwebに登場すべきビビットな小説ではないでしょうか。ウィルス、ノイズ、ゴースト、目に見えないものが漂流し増殖する空間としてネットがあり、一方に作中で「聖域」と名指された紙の空間がある。二項対立的にどちらが偉いという話ではなく、両方の特性が混じり合う今現在の小説のめぐる情況が読み込まれた、強い小説だと思います。</span>
 
　僕は四六時中、小説のことを考えているから、そのアクチュアリティはどうしても出るでしょうね。「紙の本がなくなるか」みたいな話があるけど、僕にはどうでもいい。僕は小説を残したいんであって、そもそも紙の本がなくても、それが電脳箱の中だろうがCDだろうが、小説をつくってることに変わりはない。僕にとっての小説というのは読む字であると同時に響かせる声でもある。それが『４４４４』にはあらわれてると思います。
　欲しいのは一貫してスリルです。見たこともない、読んだこともない、何が始まって何が終わるのかわからないところに飛び込んでもらいたくて書いてますよ。
 
<span>──  見たことがあるものや聞いたことのある安全なものに閉じこもっていくところを、無理にこじ開ける力を古川さんの作品には感じます。『４４４４』は何が書かれてあるのかがわからないスリルとつき合う小説ですね。そして「謎は謎のままでいいじゃないか」という気概を感じます。</span>
 
　「やっぱりデヴィッド・リンチは偉い」っていう気持ちが反映されてる小説ですね（笑）。あんなにデヴィッド・リンチ好きの村上春樹の小説を、なぜ皆あれほど謎解きしたがるんだろう。
　文芸批評が質問と回答の答え合わせをする知的ゲームになってしまっている気がしていて。作り手は自分が何を書いているのかわからなくていいと思うんですよね。肉体と感情しかもってなくていい。それに対してそれぞれが読み解いて、逆にこっちに光をあたえてくれるような、そんな美しい関係の再構築を望みたいですね。『４４４４』もいろんな回答を見てみたい。「この本にはそんなことが書かれていたのか！」って驚いてみたいです。
 
<span>──  ４４４４人分の読解を集めてみたいですね。</span>

（了）]]></description>
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         <pubDate>Fri, 09 Jul 2010 09:36:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>44　四四四四</title>
         <description>　　　
「起立もしないし、礼もしないし、着席もしない。そういう年齢じゃないしな。あの頃のおれの年配に、そうかぁ、おまえたちが達したか。
　これは先生の感慨だ。
　それにしてもな、同級会に、こんな集まるなんて。
　なあ、四年生のだぞ？
　しかも校舎をそのまんま会場にして。
　これ、異例だぞ？
　あらゆる定理には例外がある——はずはない。
　なのにな。
　先生は会えてよかった。
　いまな、放送室にいるんだ。おまえたち、校庭でも聞こえるだろ？　それでなぁ、昨晩なぁ、おれは44を二乗にした。ほら四組だったから、それが再会するわけだろ？　同級会を数式かそれに類する形に変えると、44の二乗がいいって、そんな——気がしたんだ。
　その解はな。
　その解は。
　問題じゃないんだ。
　お帰り。そしてこれが、オンエアだ」</description>
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         <pubDate>Fri, 14 May 2010 18:15:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>43　そして最後の晩餐は</title>
         <description>　　　
　その煙草に火をつけることを老人は決意した。これは最後の一服だ……いや、最後の晩餐だ。もうお終いにしよう、と老人は決心した。おれはこんな年齢で独りになるつもりはなかった、おれが確実に、確実に先に逝くはずだったんだし、そうだ……妻を看取ることになるとは思っていなかったのだ。
　しかし歳月は過ぎた。
　予想は裏切られて当然だ。
　そうだ、髭、と老人は思った。まだ黒い毛がおれの髭のなかにある。これは予想外だ、なにしろ……さっさと白いだけの髭になると予感していたのに。
　老人はそこで、もう思案するのはやめよう、と心に思う。そうして思うのもまた思案の一種だと気づいて、ただシンプルに行動する。煙草だ、そのために火を準備する。ただし煙草に点火するためにライター類は用いない。マッチを出し、そのマッチで紙を燃やした。Ａ３サイズの黄変した古紙だった。おれは慕われていたな、と老人は思う。たかが用務員が、子供たちの学級新聞の人気投票で、ああ……一位・二位・三位の、しかも校内の一位に選んでもらえたなんて。
　いい思い出だ。
　おれが焼却炉で、しょっちゅう、あの四年四組の掃除のごみ出しの子供たちとニコニコ話していたから？
　あの子たちは、と老人は思う、なにかを“燃やせる”というのは権威だと、そんなふうにおれを認めた。おれに焼却を託しもした。そうして、この学級新聞で……おれは一位に選ばれた、わけか？
　栄光の時代。
　ありがとう、と老人は言う。だれも用務員の顔を憶えていないだろう。それでいい。おれは火をつけて、おれは燃やし、おれは煙を喫い込むことで、おれは消える。
　なあ、と子供たちに言う。時間は不思議な流れかたをする。そうだ……するよ。
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         <pubDate>Fri, 07 May 2010 14:46:47 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>42　なにが一九八一年に起きたか？</title>
         <description>　　　
　そのことはわからない。しかし、ある瞬間からはじまったのだとはわかる。これはルヒィの話だ。どんな集団にもポジショニングというものがあって、人それぞれにポジショニングの欲求というものがある。単純に「上に立ちたい」やつとか、「上に立っている奴に導かれたい」やつとか。つまりリーダー志望者がいて、大衆志望者がいるという構図だ。なりたいから学級委員長になるやつは、いた。他人から推薦されて委員長や副委員長になっても、心のなかでは誇らしいなって感じているやつも、いた。そして、だれかが委員長や副委員長になれば、あとは従うか、文句を言えばいいから、役職につかないことを選択する人間も。
　文句、これはシステムに組み込まれている。
　大衆の“資格”っていうのは、上の発言を唯々諾々と呑むか、上の発言の正反対を唱えるか、どちらかだけを選ぶ——選べる——部分にある。そこにだけ、ある。発言の表か裏か。そこに一二〇度違う方向のや、七十三度のや、次元すら一つ二つ違うのを持ち込んだりは、しない。
　そんなことをしたら、宇宙人になる。
　ほら、世界はついに三つにわかれた。
　１。リーダー。
　２。大衆。
　３。宇宙人。
　そしてルヒィの話だ。子供たちの社会（コミュニティ？）にも１と２はあって、この事実は当の子供たちにも理解されているのに、３はほとんど認識されない。だからルヒィは、３にはならずに１と２のあいだの潤滑油を選択した。ルヒィは正直だ。ルヒィは愛情にあふれている。いわばピュアだ。しかし「上に立ちたい」欲求もなければ、そうした欲求が実在することも気づけないでいるものだから、目立たない級友たちを慈しんだ。そして、目立たない子供っていうのは、じつは１でも２でもない。
　未来の時点からふり返ると、わかる。ルヒィはいいやつだったって。
　しかし「いいやつになりたい」やつは、単純にいいやつのはずがない。
　せいぜい１だ。分類の１。
　ルヒィはそうじゃない。いいやつだった。
　もちろんルヒィにだって野心はあったし、いまもある。成長したルヒィがその名前で呼ばれることはないから、いまのルヒィにはない……いまのルヒィなんて「いないのかも」しれない。
　じゃあ、話を戻そう。
　なにが一九八一年に起きたか？
　それをルヒィは放課後の教室で考えている。ルヒィは掃除をしている。実際にはルヒィたちが。分類の２の連中は付和雷同してサボって消えた。だからルヒィが、僕たちでやろうや、と言った。二人が、うん、イエー、と笑ったし、それにもう一人、数カ月後には違う学校に行ってしまう女の子も、参加した。
　掃除される教室がルヒィは好きだ。
　机たちが廊下に出されてしまうから。
　廊下に出された机たちは走らないし（もちろん！）、教室のなかは不思議な顔つきになる。とても不思議だ。フラットだ。級友たちの室内での絶対的ポジショニングにも、もう汚染されていない。
　こんなに広い、とルヒィは思う。
　床はこんなに平らだ、とルヒィは思う。
　空っぽだ、と一瞬思って、いつも、空っぽとは違うんだよね、とルヒィは思う。
　じゃあなんだろう？
　それがあるとき、判明した。ちなみにこの体験が起きたのは一九八一年ではない。ぜんぜん違う。ルヒィは、二人の男の子と一人の女の子と１でも２でもない豊かでフワフワとした掃除をつづけながら、あ、と気づいた。この教室には僕たち以外も、ずっと、いた。一年ごとに違う男の子と女の子たちがいて、通過していった。
　そうだ。
　だから“年”が通過していった——。
　それはいつからはじまったのか？
　一九八〇年まで、この小学校は木造校舎だったという歴史をルヒィは思い出す。
　それだ。
　だから一九八一年から、新校舎になる。この校舎になって、毎年、その“年”が通過していって、それは幽霊たちだ。ルヒィは通りすぎる幽霊たちに、やあ、こんちは、とモップをふる。
　すると教室の窓ガラスを風で叩いて、幽霊たちも返事をした。
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         <pubDate>Fri, 30 Apr 2010 13:40:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>41　だれの口から「家に帰ろう、ロバに乗って、アルミニウムの橋を越えて」との号令が発せられたのか？</title>
         <description>　　　
　それからこんな情景だ。
　あたしは絵本作家になった。じつはあたしには才能があるのだ。ただし一冊ごとに出発点がちがう。タイトルから全部がはじまることもあるし。色からのこともあるし。もちろんキャラクターからのことだって。ちなみにあたしは色を塗るみたいに言葉が塗れる。それは感情にそれぞれ色彩があるのに似ている。それから感情がいろいろな動物にシンボライズされてもぜんぜん大丈夫だって現実にも。
　たとえば？
　怖いときは猿。笑えるときはシマウマ。でも苦笑の感情はインド象。
　あたしはこんな話を思いついた。まず犬がいるのだ。そして犬が猫を飼うのだ。その猫が七面鳥を襲うのだ。そして七面鳥は……七面鳥は？
　待って。
　あたしが取りかかった新作はもうタイトルがついている。なかなかフックのあるタイトルで、それは『家に帰ろう、ロバに乗って、アルミニウムの橋を越えて。それが号令だよ』というのだ。でも、あたしが思いついている物語はこのタイトルに調和しない気がした。犬と猫と七面鳥のトライアングル・ラブ。もしかしたらロバが余計なのだろうか？　ロバが邪魔者？
　あたしは七面鳥にロバといっしょの逃走劇を演じさせようと考えて、その情景を頭に想い描いて、ああ、南北のアメリカ大陸のシンボライズみたいだなって思う。そうだ、あたしはアルミニウムの橋を越えられる。</description>
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         <pubDate>Fri, 23 Apr 2010 11:35:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>40　いつまでにノイズたちは沈黙する？</title>
         <description>　　　
　たとえばこんな情景だ。あたしたちは猫を飼っている。あたしたちは同棲していて、一匹の猫を飼っていて、その猫は雑種の白猫で、あたしたちは暮らしはじめて六カ月めで、四カ月をすぎたころから雲行きがあやしい。でも、あたしたちは平等にその白猫を愛していると思う。
　あたしは彼のいろんな部分が許せない。無駄なこだわりとか、あたしの言うことを聞いているふりをして聞いていないし、食べかたがちょっと汚いとか。もちろん違う人間だから愛したし、愛したから暮らしはじめたわけで、そのことを理解しているし、でも、あたしはあたしを全面的に受け入れないことが結局はまるっきり許せないんだと思う。あたしたちは同棲しているけれども、あ、こんなところが嫌いだ、とはっきり思う瞬間に、彼を見るあたしの視界に白い線が無数に走る。
　あたしの視野はノイズだらけになる。
　白猫は愛おしいのに、白いノイズは憎しみを駆るだけ。
　いやだ。
　あたしが、いやだ、という顔をすると、彼が乱暴に反応するようになった。
　そして、こんな情景だ。彼は大判の分厚い雑誌を読んでいて、彼がなにかを言うか、あたしがなにかを言うかを契機に、その“乱暴”が暴発する。あたしはまだ、殴られてはいない。けれど、この日は雑誌を投げつけられる。それはあたしの頬に当たって、跳ね返り、ぽろん、とカーペットに落ちる。あたしの一メートルとちょっと前の床に。落ちた雑誌はページを開いた。写真がある。そのページに載っているのは風景の写真だと思う。それは旅がテーマの雑誌だからだ。
　どんな写真かなんて、わからない。
　視界はノイズだらけだから、ノイズの疾走レースだから、わからない。
　怒号もそう。
　そして猫が、ジャンプする。あたしたちの白猫がソファから跳んで、その雑誌のその開かれたページに載る。それは「やめなさい」という合図だ。それは彼とあたしのちょうど真ん中の空間に現われて、分け入って、「やめなさい、にゃん、仲介です、にゃん」と宣言するアクションのランゲージだ。
　あたしは泣いた。
　座り込み、猫を撫でる。
　その雑誌のページの上で、白猫は、旅しているように見える。あたしの視界のノイズはまだ轟々としていて、あたしは光と影しかわからない。写真には光が、それから影があるんだとしか。でも、写真にはキャプションがついていて、それは撮影クレジットで、その部分だけはノイズの波を通過して読める。たぶん白猫を祝福しているように感じられたから photogragh by Snow とあるのが見えるし、読める。撮影者の名前がスノウだから、あたしは、白猫が撮ったみたいだと思う。
　猫の撮影した写真。
　そんなことだって、あるのだ。あたしたちはきっと別れるだろう。でも、この瞬間は愛おしい。あたしは網膜に、猫と雑誌をまるごと、記録する。
</description>
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         <pubDate>Fri, 16 Apr 2010 11:58:17 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>39　だれが同心円の真ん中にいますか？</title>
         <description>　　　
　わたしはＳサイズのカップで本日のコーヒーを頼む。
「ホットでしょうか、アイスでしょうか？」
　わたしはホットでと頼む。
　わたしは空いている席に座る。
　わたしはテキストを開く。
　わたしはノートをそれから開く。
　わたしはテキストが意外にむずかしいことに驚いてしまう。
　コーヒーを飲む。
　わたしはノートに人名を書き込みはじめる。
　わたしはコーヒーのカップがその重さを減らしはじめるのを感じる。
　わたしは持っているカップの重さでコーヒーを飲んでいるのだと実感する。
　わたしはノートの白い部分にわざとカップを置いてみる。
　コーヒーの雫が黒い半円のようなものを描く。
　黒い、欠けている円。
　わたしはＭサイズのカップで本日のコーヒーを追加注文する。
「ホットでしょうか、アイスでしょうか？」
　また訊かれた。
　また答えた。
　またテーブルに戻った。
　以前のＳサイズのカップは片付けない。
　わたしはノートにもっと詳細なデータを書き込みはじめる。
　わたしは人の名前の隣りにいろいろなことを思い出しながら書く。
　わたしは小さな字で書く。
　わたしはＭサイズのカップですら重さを減らすのを感じる。
　わたしは飲み干しつつあることを実感する。
　わたしはそのＭサイズのカップを片付けない。
「ホットでしょうか、アイスでしょうか？」
　わたしはもちろんＬサイズのカップで追加注文している。
　わたしはそれでも同じ二者択一の質問を受ける。
　いいかげん学習しなさい。
　しかし怒鳴らない。
　叱りもしない。
　奇妙な、ちょっと不気味な人間はわたしのほうだと思えるから。
　わたしのテーブルにＳとＭとＬサイズのカップが並ぶ。
　わたしは最後のカップにだけ黒い、熱い液体が入っていることをわかっている。
　わたしはノートの人名に赤い丸を付けたり、青い波線を付けたりする。
　わたしは人物の相関図を作ろうとしてみる。
　わたしは挫折する。
　わたしは相関図の線が引けない。
「片付けましょうか？」
　声がして、店員が親切に言って、ＳとＭのカップに手をのばす。
　二つが宙に浮き、一つが卓上にのこる。
　ＳとＭとＬ。同じ丸いもの。カップの飲み口に円があるもの。
　それが小から中から大へ。
　わたしは思う、ズーム？
　わたしは思う、同心円？
　わたしは思う、中心……人物？
　ふいに、わたしはわかる。わたしは直観する。わたしは昨日送られてきた案内状をとりだして、それをノートの白い頁にひろげて貼る。同窓会だか同級会だかのそれの、お知らせ。わたしは三つのカップからついに理解して、ついに線を引きはじめる。
　わたし、神様？
「あ。このコーヒー、不味い」
　そうです、神様はやっと気づきました。不味いコーヒー、飲みすぎです!!</description>
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         <pubDate>Fri, 09 Apr 2010 10:51:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>38　どちらを取るか、ゲームとマジ？</title>
         <description>　　　
　おれは館長と会場で待ち合わせをした。会場は市立のスポーツセンターだった。そのセンター内の武道場だ。武道場とそうでないスペースの違いは、床だ。たとえば畳の床でできるスポーツは、限られている。そういうことだ。
　そのスポーツセンターは公園みたいな敷地の真ん中あたりにある。
　真ん中だったかな？
　もしかしたら、そこ——その公園みたいな敷地をただ単に横切って辿りつけるってだけかもしれない。おれは把握が甘い。こういう施設に通うなんて思ってなかったから、いま現在も流されている。
　おれはもともとスポーツになんて縁がない。
　気がついたら、まあ、闘っている。
　それでおれが何を問題にしているかっていうと、アマチュアのおれが出場するその格闘技のトーナメント戦の、はじまりが午前十時だってことだ。これは、朝だ。わかるやつはわかると思うけれども、朝はからだが硬い。硬かったり、まあスムーズに動かなかったりする。すると何が起きるのかといえば、動きが鈍いから、負ける。
　つまり午前十時より前に、どうにかする必要がある。
　おれは館長と午前九時十分に待ち合わせをした。
　それからウォーミング・アップする。道着に着替えて。
「なあ高梨、横になれ」
「こうスか？」とおれ。
「そうだ。力、脱け。いいか？　右足をとるぞ。そう、九十度上げておけ」
「はい。あ……」
「もう少し、叩いとくぞ。ここのな、腿の裏側にパンチ入れておけば、あとでな」
「つぎは左スか？」
「そうだ、左足」
「はい。で……」
「おう。膝が瞬発的に出るようになるんだよ。考えるより前にな」
「膝蹴り？」
「そうだ」
　おれがやっているのは空手ってことになる。しかし、ジャンルは喪失した。この大会はアマチュアの、“立ち技”のトーナメントだから、どこかで異種格闘技戦の様相を見せる。中国拳法のおかしな連中がいっぱいいる。でも、あの手のやつらだって、カンフーシューズは脱がされる。
　裸足がルールだ。
　武道場だから。
「館長」
「しー」
「え？」
「七人しか道場生のいない流派で、人前で“館長”って呼ばれるのは、その、な……」
「いいじゃん」
　おれは、ため口をきいてしまう。館長はおれより三つ年下だ。仕事で知り合って、仕事を離れて呑んで、流派を興したと聞いて、意味不明だったから詳細にたずねて、一度参加しようよと誘われて、レンタル・スペースの道場に足を運んで、ミットを蹴ったら意外にストレス発散できて、カタ——踊りみたいな型（そこにいろんな技が含まれている）の練習はきらいだったが覚えたら褒められて、気がついたら「入門」させられていて、その後に二十七人が入門して二十六人が消えて、でも以前からいる人間はやめずにして、おれは入門した以上、館長にこういう場では呼び捨てにされて、高梨、とだけ呼ばれて、試合に出ようよと誘われて、しかし日程が合うのがおれだけで、おれ一人がこのトーナメントに出る。
　まいったな。
　何がまいるのかといえば、負けるよりは勝ちたい、と思う自分がだ。
　一勝はしたい。
　つまり二回戦には出たい。
　トーナメントだから、二回戦には勝ちあがりたい。
　まいったな……こんなものにマジになるつもりはなかったんだよな。
　人間の精神って、精神っていうかプライド？　なかなか困ったもんだな……。
「あれ？　高梨、今日はやけに柔らかい？」
「からだスか？」
「おう」
「ストレッチ済みです」
「じゃあ、会場入りする前に？　家で？」
「あー、その、走ってきたんで。それから公園で」
「疲れすぎてない？」
「いや、その、あー……おれ、二週間前から朝型に変えて、ずっと走ってるんで」
「マジ？」
　そりゃマジだよ。おれは思う。
　ゲームだからマジだよ。
　勝敗出すために、そのために。目的はゲーム。
　ゲーム……なのか？
　おれがわかったのは、わたったというか空手をはじめてから理解したのは、強いとか弱いとか、そういうのは状況設定によるということだ。しっかりとウォーミング・アップしたやつとそうじゃないやつだったら、前者が勝つ。酔っているやつと酔っていないやつだったら、後者が勝つ。だから午前十時からの試合なら、午前十時にはベストな肉体に調整済みのやつが、たぶん、勝つ。
　それは面倒なことだ。
　起床時間を決めて、朝食の時間を決めて、朝食の——栄養素の内容を決めて、消化にかかる時間を計算して、それプラス運動、となる。
　面倒だ。
　だから、たいていのやつはやらない。会場に入ってから、全身を温めるって程度だろう。だとすると、それに三時間先んじれば、勝つ。
　おれは調整してある。
　おまけに膝蹴りも、今日は出るらしい。
「膝、瞬発的に出るんですよね、館長？」
「出るぞ」
「瞬発的に、膝、出ますかね？」
「考えてたら、出ないなあ」
「うす」
　おれは、オス——例の“押忍”とは言わない。あまりに空手っぽいから。そんなことを言わされる流派だったら、体験稽古というか体験入門でやめた。さいわい、館長は“押忍”主義ではなかった。
　で、うす。
　午前九時五十分。
「さあ、リラックス」と館長。
　助言されずとも、おれはリラックスしている。
　午前十時の少し前。
　ほんの少し。
　そして午前十時。
　呼び出しがある。一回戦二組、タカナシ君——と。そう、試合は君付けだ。おかしな世界。相手も君付け。ワイズミ君。
　しかし呼び出しの訂正がある。ワイズミ君はただのイズミ君だった。きっと「和泉」って二文字の漢字で書く苗字だ。
　これはタカナシ君、対、イズミ君だ。
　イズミ君の顔はこわい。しかし、身長はさほどでもない。一七〇センチない。
　そうか。
　それじゃあ。
　午前十時。ここでは二つの試合が同時に行なわれる。おれは二組。ニクミ……二組？　おれの頭には四組ってコールが響いた。反射的にクラスの番号はそうなる。すると、午前十時からひとつの苗字が引き出された。十時って書いて、トトキって読む。あの子。
　そうだ、あの美少女。
　糞。
　告白しとけばよかった。
　おれは小四で初恋して——。
「高梨！」
　館長の声が響いた。それを合図に力を脱いた。でも何も考えていないおれは、膝蹴りは出さず、何も考えないままに相手のタッパを目測して、完璧な上段回し蹴りを出していた。
　そう、ハイキックが出る。
　おれと勝敗を争っていたイズミ君が、倒れる。
　あ。初恋？
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         <pubDate>Fri, 02 Apr 2010 13:57:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>37　なにどこだれどれが？</title>
         <description>　　　　
　零下50℃のチューブ状の通路があって、底に、
　光が見えます。
　降りる？
（でもチューブ状の通路は四つある）</description>
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         <pubDate>Fri, 26 Mar 2010 12:41:59 +0900</pubDate>
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         <title>36　なぜ僕がヘルプミーって叫んだらいけないんだろう？</title>
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　妻に冷蔵庫という名前をつける。冷蔵庫は病気になってしまう。その治療にはさまざまな費用がかかるが、払えない。かつて家族と縁を切ったことを僕は後悔するが、借りられない。どこの正規雇用の社員でもないことを、保険を三年前に解約したことを悔やむが、遅い。しかし家にはキッチンがあり、そこには「刃物のようなもの」があり、必然的に僕は犯罪を選択する。拳銃を持たないで犯罪が行なえる日本に生まれたことに感謝しながら、押し入り、裏の倉庫に店員を案内させて、そこに業務用の冷蔵庫を発見して、もう揉みあえない、と知る。
　だが冷蔵庫は生きなければならないのだ。</description>
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         <pubDate>Fri, 19 Mar 2010 11:23:13 +0900</pubDate>
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